どれほどピアノを弾き続けただろうか、膝の上にぽたりぽたりと汗が落ちた。両手がガタガタと震えている。ふっと落ちてきた影に顔を上げれば、店長が水の入ったコップを無言で私に差し出した。

「うちのピアノ壊す気じゃないでしょうね」
「春輝くんにはピアノ壊すくらい弾けって言われました」
「城春輝が言うなら仕方ないわね―――じゃないわよッ!言葉のあやでしょうがッ!」

 確かに、一生懸命やるのとただがむしゃらにやるのとは意味が違う。コップの水を一気に飲み干して、一度頭をリセットした。
 堪えているのだろか、平気なはずだったのに。それとも、全国ツアーの始まる前の緊張だろうか。これが成功するのとしないのとでは、ヨントリーホールへの距離が全く違うものになって来る。後がない、という訳ではないのに。プロの音楽家としては、私はまだ駆け出しだ。けれど何か、いつもギリギリのような感覚がある。一歩足を後ろに引けば真っ逆さまに落ちてしまうかのような。
 すると、先程まで店長と話をしていたらしい女性が拍手をしながら近付いて来た。

「良い演奏を聴かせて頂きました」
「とんでもない、お耳汚し失礼しました」

 私と同年代か、少し上に見える女性は、微笑んで小首を傾げる。女性と言う年齢なのに、可愛らしさの残る彼女の雰囲気は、音大で見て来たお嬢様たちの印象と被る。店長の知り合いなら音楽をしている人間なのかも知れない。けれど、ここで演奏するべく面接を受けに来たようには思えなかった。

「城くんと瀬名さんの音楽、よく聴くんです」
「あ、ありがとうございます」
「ラ・カンパネラから作風が変わりましたよね。あと、映画の主題歌になった、あの…」
「サイレントストーム」
「それ!大好きで、職場でもよくかけています」

 CDを持って来れば良かったわ、サインが欲しかった、と明るく話す彼女。それとは対照に、私は緊張で固まっていた。これまで、こうして直に私たちの音楽を聴いてくれいる人と話したことが少なかったのだ。SNSもろくにやっていない私は、自分たちの評価を良くも悪くも目に、耳に入れて来なかった。春輝くんについては祖父もお気に入りのバイオリニストのためよく評判は入って来るが、自分については正直な所、よく分からない。
 面映ゆい感じがする。しかの先程の演奏なんて、指ならしとでも言えばいいのか、ステージ向けの演奏ではなかった。本当はもう少しまともな演奏ができるんです、と誰にでもなく心の内で言い訳をする。
 やや間があって、伏し目がちになった彼女は、ぽつりとこぼした。

「最後に聴く曲を選べるなら、あなたのピアノが良いわ」
「…………」

 人生最後の日に食べたいものは、と聞かれることはままある。けれど、人生最後に聴きたい曲は、というフレーズはなかなか聞かない。思いもかけない言葉に、一瞬返す言葉に詰まった。褒め言葉なのだろうが、その訳ありを思わせる表情に、軽々しく「ありがとうございます」と返せなかったのだ。

「ごめんなさい、変なことを言ったわね」
「いえ」
「武道館でも、アリーナでも、二人ならきっとどこへでも行けると思います」
「クラシックなら聖地はヨントリーホールよ」
「ヨントリーホール!見てみたいわ!」

 店長が口を挟む。何度目かのヨントリーホールのプレッシャーが、ずしりと背中に圧し掛かる。今度の全国ツアーにその開催がかかっていることを知っての発言だ。ピアノを無茶弾きした私への嫌味のつもりなのだろう。けれど、自然と私の口から「がんばります」という言葉が出ていた。
 最後に、握手をして彼女を見送った。また会えたらサインちょうだいね、という約束を残して、お店を出て行く。
 がんばれそう。自分に言い聞かせる。その一言が、すとんと胸の内に落ちて収まった。がんばれそうだ。あの頃はがんばれなかった。コンクールで優勝したいと思えるほどがんばれなかった。そこに、私なりの価値を見出せなかったから。音大もそうだ、がんばる意味が分からなくて、そこそこやってそこそこで卒業した。だから、以前清水藤矢に評されたように、コンクールの出来は酷いものだった。
 点数や賞で可視化できず評価が分かりにくいにも拘らず、逆に今は明確な目標があってがんばり方が分かる。職業ピアニストとしてなら続けられるかも、とやり始めたこの活動。けれど、いつしかちゃんと音楽家として機能していた。あまりピアノ好きじゃないかも知れない、と春輝くんに言ったこともある。楽しく演奏している気持ちもなかった。それなのに、最近はちゃんと楽しいと確かに感じている。舞台脇で待っている間の緊張感も、ステージの真ん中に位置した時の高揚感も、演奏を終えた時の達成感も、ピアノが好きでないと生まれない感情だ。割り切った活動なら、ヨントリーホールを前にプレッシャーだって感じなかったかも知れない。
 私は、大勢の観客を感動させたい。春輝くんと二人、ホールいっぱいの観客から、大きな拍手をもらいたい。今、ようやく思えたことばかりだ。

「城春輝に感謝しなさいよ」
「え?」
「はすみをこんな銀座の小さなバーから見つけ出して、その才を世間に知らしめたのは、間違いなく城春輝の功よ」
「…………」
「伴奏だけをしていたい、後ろに引っ込んでいたいと言ったあんたを上手く引きずり出したのも城春輝。彼こそ天才ね、なんでもできるバイオリニストだわ」
「私も、そう思います」

 私がそうだったように、彼もまたコンクールが最も光る舞台ではなかったのだろう。そこで彼の本領は発揮されなかった。彼の場合はそこで一番を獲ることを目指していただけに、私のように割り切れなかっただろうが。こうして別のルートから頂点を獲ってしまえば、またそれも良い経験だったと言えるようになる、かも知れない。それはもう城春輝自身にしか分からないことだけれど。
 そろそろお店の開く時間だ。ピアノ前に並べた楽譜をまとめて片付け始める。その途中、店長が唐突に話を始めた。

「はすみも城春輝も決して楽な音楽家人生じゃなかった。そういう人間の演奏が琴線に触れる人間はたくさん出て来る。さっきのあの子のようにね」
「さっきの……」
「下らないゴシップに踊らされるんじゃないわよ。家族との不仲も生い立ちも、それすら味方につけられる日はきっと来るんだからね」

 きっと、あのネットニュースの記事を店長も読んだのだろう。記事の内容の全部が全部、嘘でなかったことも店長は知っている。私の様子がおかしかったのはそのせいだったのだと察しているようだ。そんな今の私に、店長の言葉は痛く突き刺さった。何もかもあの記事のせいではないけれど、実際半分くらいは後を引いていた。
 国立音大中退、実家の経営不振、学費の未払い―――以前オーナーから聞いた店長の過去の話を思い出す。そうだ、この人も苦労をして来た人だ。バイオリンしかして来なかった、とも言われるほどには、熱心にバイオリンをやって来たのだろう。それも思わせるような言葉だった。
 私が本名で活動しなかったのは、コンプレックスの最大の表れだ。妹のことをなんとも思っていないなら、最初から瀬名はすみなんて芸名は使わない。知らず知らずの内に、家庭環境全て公にはしたくなくなっていた。ここで働く他の演奏家の子たちにも、妹が星名まどかだということも、仲の良い姉妹だと言うことも知られたくなかった。だから離さなかったし、そもそも彼女たちとはある程度距離をとっていた。

「ちょっと!泣くんじゃないわよ!私がいじめたみたいじゃない!」
「す、すみません……」

 大きく膨れ上がった風船が、細い針一本で突かれて弾けたみたいだ。誰も言ってはくれなかった、このままで良いと。シャットアウトしているSNSや、お節介な人たちからは、仲直りできるといいね、なんていうメッセージが届く。そうではない、といくら思おうと、それを発信することはできない。親子関係や姉妹関係の悪さはマイナスイメージに繋がるからだ。そういう後ろ暗さが、無意識のうちにいつだって私に後がないかのように感じさせていたのかも知れない。
 私自身は別に関係を回復するつもりはなかった、このままでいいと思っていた。けれど、私と言う音楽家の名前が独り歩きし始め、周りが放っておかない。その結果のあの記事だ。音楽に対するモチベーションは下がらなかったけれど、私の中に残る呪いだけは疼いた。そこを見抜いた店長の言葉には参ってしまった。欲しい言葉をいざもらうと、それはそれで泣いてしまうものらしい。

「許せないものは許せないままでいい、許しちゃいけないものだってあるんだってことを忘れないようにね。いつだって基準は自分の本心よ」
「店長…」
「ヨントリーホールSS席も忘れるんじゃないわよ」
「店長…………」

 そんなことを言われてしまうと、ヨントリーホールだけでは足りないではないか。思えば、ここに面接に来た時も、履歴書を気にする私に「貴女が何者かなんてあんまり興味がないわね」と言ったのは店長だった。その都度、背中を押されている気がする。何をしても否定をしない人がいてくれると言うのは、最大の安堵を私に与えた。

「やります、楽しくなくなるまで」

 春輝くんとの活動に大きな動きがあった時に、店長にかけられた言葉を使って返す。

「今の所、そんな予定ないですけど」
「それが良いわ。広い会場に飽きたらうち使って良いわよ、城春輝を連れて」
「その予定も…ないですね……」
「言うようになったじゃない!」

 そう言って、得意のファルセットをきかせた声で店長は笑る。そして今度は、店長に見送られて私がお店を出た。
 家への道すがら頭の中に流れるのは、城春輝編ラ・カンパネラが発表されて初めてコンサートを行った時の映像だ。
 今日会った女性も、ラ・カンパネラから私たちの音楽が変わったと言っていた。あれは正しく、私たちの運命を変えた曲だ。これまでも、これからも、あれほど重要な曲はない。あの曲は、私だけでなく春輝くんも変えた。あの曲以降、曲中でピアノを前面に出すことも多くなった。前に出れば出るほど、誤魔化しは利かない。
 あの曲こそが、プロの演奏家として私に覚悟をさせた曲だ。今日は帰ったら、あの曲をもう一度ちゃんと弾こう。私たちの目指す場所へ導いてくれるのも、きっとあの曲だから。
 当分、音楽を辞められそうにはない。私たちの音楽を待ってくれている人がいる、もし躓いても発破をかけてくれる人もいる、私の演奏に期待してくれる人もいる。まだ、この両手は鍵盤を弾きたいと言っている。
 スマートフォンを取り出し、アドレス帳の中から城春輝の名前を探し出す。通話ボタンを押すと、すぐに春輝くんは電話に出た。

「春輝くん、ヨントリーホール、絶対行けるよ!」

 私の唐突な電話の向こうで、やや間があった後、彼は「もちろん」といつもの自信に満ちた声で返事をくれたのだった。