その勝手に期待する“天才”が、思うような結果を出せなければ、また勝手に失望する。その勝手な失望が、たくさんの天才の種を潰す場面も、間近で見て来た。
僕は天才ではない。そう称されたこともないし、自分でもそうとは思わない。コンクールの受賞歴、コンサートチケットの売れ行きが全てを物語っている。僕はいつも、二番目にすらなれない“三番目”だ。
天才・芳井祐介の口から、天才・星名まどかの名前が出た。
「星名、活動休止だって」
「なんて?」
所用で母校の音大に顔を出すと、同じく所用で訪れていた芳井と遭遇した。特別親しいわけではなかったが、他の学生たちよりはずっと知っている相手だ。いつだって僕は、学内外問わずコンクールで芳井、星名の下に名前を連ねていたのだから。生憎、かの二人は互いしか意識していなかったようで、確実に二位と三位の間には越えられない壁が当時からあった。二人に僕が認識されていても、恐らく意識はされていなかっただろう。そんな相手に声をかけられ、あまつさえ「お茶でもどうか」と声をかけられるなど、学生の頃なら断っていたはずだ。何せ、芳井と星名は、こちらからすれば嫌でも意識しなければならない相手だったからだ。
そんな芳井と、キャンパス内のカフェでコーヒーを飲んでいる。しかし、先程からちくちくと刺さる視線は、間違いなく芳井のせいだ。現在バイオリン界における芳井のポジションは、多くの若手が虎視眈々と狙っているもの。知名度も僕とは比べ物にならない。
「星名のホームページ見てみなよ。お知らせ出てるから」
「…うわ、本当だな。来年のベルリンフィルとの公演どうするんだろう」
「空くなら僕が演りたいなあ」
にこにこと笑いながらさらりと発言した。芳井なら星名の代わりくらいできるだろうが、ライバルの降板を好機と捉えチャンスを引き寄せようとするところは学生の頃より磨きがかかっているように思う。抜け目がないというか、野心の塊と言うか。
「城は今なにしてんの?」
「バイオリン」
「そりゃそうだろうけど」
「クラシックからは殆ど手を引いてるよ」
「そうなんだ、勿体ないなあ」
悪気はないのだろうが、お前がそれを言うか、である。
自分のしている音楽が駄目だとは思わないし、恥ずかしいとも思わない。城家は親戚に至るまで多くが音楽に関わる仕事をしているし、プロの演奏家も勿論いる。その中ですら、僕の今やっていることが馬鹿にされたことはない。
けれど、今の芳井の言葉ではっきりと分かったのは、まだそこに届く所まで自分の音楽が響いていないと言うことだ。これは流石に、闘争心に火が付く。
「芳井にそう言われるような名手じゃないよ」
「気を悪くしたなら謝るよ。けれど本心だよ、城は大和先生が手をかけていた生徒だったから」
「大和先生に弟子入り断られたこと根に持ってるんじゃないだろうな」
「まさか。師匠と弟子は相性、僕も大和先生は素晴らしいバイオリニストだと思うけど、気が合わないならそれまでだ」
芳井と話すのは、ますます疲労を感じるようになっている。同じ天才ならまだ星名の方がましだな、と思った。いちいち、何か裏に隠された嫌味があるのではないかと疑わなくてはならない。回りくどいのが嫌いな僕は、芳井とのやりとりが苦手だったのだ。
自販機で買った紙コップのコーヒーは、あの頃となんら味に変わりはない。その懐かしい味を飲み干して、僕は立ち上がる。この天才バイオリニストと雑談している暇があったら、自分にはやらなければならないことがあるのだ。
「じゃあ、そろそろ時間だから」
「そう、残念だね。もっと思い出話に花を咲かせたい所だけれど」
天才はどこか変だとは言うが、芳井はその筆頭ではないだろうか。今までの会話のどこに花が咲いていたというのだろう。会話は止まることこそなかったが、弾んでいたとは言い難い。
きっと芳井は、星名の席が空いた所で僕が座れるとは思っていない。自分に用意された席がある癖に、星名の席も欲しがるような人物だ。それに、僕が座るべき椅子はそこではない。
この二人とまともに勝負したとて、僕に勝ち目がないことは分かっている。芳井も星名も努力する天才だからだ。努力しない天才に先はない、だから消えて行くけれど、この二人は消えることのない天才である。何をもって天才とするかは人によりけりだろうが、少なくとも僕の中の定義で二人は間違いなく天才という生き物なのだ。
「そうだ、一つだけ。一人面白いピアニストがいるんだよ」
去ろうとする僕を、全く別の話題で引き止める。なぜ突然ピアニストの話題なのだと、訝しく思いながら振り返った。ピアニスト、と繰り返すと、芳井は頷いた。
「そう、星名のお姉さんらしいんだけど、なんて名前だったかな…」
「そのピアニストがなに?」
「なんかさ、城のバイオリンと合う気がしたんだよね」
「…もう何年も僕のバイオリンなんか聴いてないだろう」
「演奏の根幹なんて多分そう変わらないよ」
何もかも分かっているかのような笑みを浮かべる。ああそう、とだけ言って今度こそ出口に向かう。入館許可証を事務室に返し、芳井との会話を思い返しながらぼうっと歩いていると、広いはずのキャンパスで、いつの間にか門まで帰って来ていた。こんなに長居するつもりはなかったのだが、と大きな溜め息が一つ出た。
改めてスマートフォンを取り出し、開いたままだった星名のホームページを見る。インフォメーションには、体調不良による活動休止というシンプルな理由が並べられていた。
プロは、自己管理も徹底している。けれど、それでもバイオリンが弾けないほどに陥ったのだろう。こういうこともあるのだな、と、まるで他人事だった。例えば、この帰り道で急に交通事故にでも遭えば、自分だって明日にはバイオリンが持てなくなっているかも知れないのに。
(それはまずいよな……)
まだ、やりたい音楽をやり切っていない。この演奏家だ、と思う相棒も見つかっていない。パートナーを固定でやっていない最大の理由は、組むほど魅力を感じる奏者に出会わなかったからだ。プロでもアマでも関係ない、直感に刺さる奏者が僕は欲しい。期限の定められていないことだから焦ってはいなかったが、今日の芳井との会話で何もかも急がなければと感じた。
そのまま連絡帳を開き、一つの電話番号をタップする。電話をかけた先は、以前共演したことのあるピアニストだ。もしもし、という相手の声が聞こえると、早口で要件を伝えた。
「来週行くって言ってた恵比寿のお店だけど僕も行くよ、良いピアニストがいるんだろう」
天才でない僕が必要としているのは、天才ではない。天才ではないが、何でもできるピアニストだ。そんなピアニスト発掘のためなら、どんな場所でも行く。コンサートも、コンクールも、ジャズバーも、ロックバンドのライブだって。
この世界で、天才でなくても多くのことができると証明したい。一位をとれないバイオリニストだったが、できないことがないバイオリニストになりたいのだ。だから、相棒にも同じだけの万能性を求めたい。クラシックも、ジャズも、ロックも、ポップスも、民族音楽だってできるといい。
あとできれば、目立つのは好きではないといい。