音楽大学はお金がかかる。プロを目指しているならなおのこと。特待生ほどの実力があれば退学などせずに済んだだろうが、残念ながら自分にはその実力はなかった。だから諦めざるを得なかったのだが、幼い頃から追って来た夢を諦めるのに、一日二日で足りるはずがない。正しく茫然自失だった。
「残念だよ」
師は、心底惜しそうに言ってくれた。その言葉に嘘はなくとも、じゃあなんとかしてくれるのかと言えば、そう言うわけではない。いち学生を贔屓するわけには行かず、自分に将来を見出して「奨学金を借りてでも」と引き止めてはくれなかった。
大学三年の夏休みだった。突如将来の選択肢を真逆に転向するほかなくなったのは。ずっと一本道を歩いて来た自分には、音楽以外の職など考えたこともなく、世の中にはどんな職があるのかも分かっていない。正直、音楽以外の分野は平均ぎりぎりかそれ以下の成績だ。一般社会に放り出されて使い物になる自信がない。
住んでいる音大生向けのアパートも急いで退去しなければならない。今月分の家賃くらいは払えるから、と言われたが、日割りで安くなる方が良いに決まっている。ここまで通わせてくれた親に、文句など言えるはずがなかった。親の経営する会社が倒産したにしろ。
「で、九十九さあ」
「つくちゃん」
「…つくちゃんさあ、これからどうすんの?」
「何にも決まってない」
引越し業者を雇うお金も勿体無くて、引越し自体も自分ですることにした。そうして呼びつけたのは、高校の同級生で今も唯一連絡を取っている大間知だ。確か運動系の部活に入っていて力には自信があると言っていたし、先日も暇をしているような連絡をして来ていた。そもそも、自分には友人が極めて少なく、声をかけられる相手が最初から大間知しかいなかった。
大学生になって以降様々な髪の色を見せて来た大間知だが、この夏は金髪に落ち着いているらしい。生まれてこの方、髪を染めたことのない自分とは、並ぶ度にいつも奇妙やコントラストを生んでいる。
「決まってないのに引越し作業手伝わされる俺…」
「他に暇そうな奴いなかったし」
「そりゃ音大生と違って俺らフツーの大学生は暇ですよっと……なあ、本当に全部捨てんのか?」
縛り上げた教科書やノート、譜面の山を見てこちらを気遣わしげに見て来る。大間知にそんな風に言われたとて、これから先の自分の人生でそれらが役に立つことはない。ゴミの山として実家で埃を被るなら、いっそここで全て捨てて行った方がいい。未練は邪魔になる。
「プロって所詮は自称だろ?なら、音大卒じゃなくてもバイオリンやる道ってあるんじゃねえの。つくちゃん、オーケストラ志望じゃないって言ってたじゃん」
「世間に認めてもらえるプロかどうかはまた別問題でしょう」
「…………」
「まだ今の時代、自称では食って行く方法がないの。うんと未来はどうか分からないけど」
オーケストラ所属ではなく、ソロでプロのバイオリン奏者になりたいのには理由があった。あの燕尾服を着たくないのだ。できる限り美しく華やかな衣装を着たい。バイオリンを弾きつつそれをするには、ソロ奏者になるしかない。
けれど、奇抜なことをするには何事にも周りを納得させる実力が要る。自分が将来、美しいドレスでバイオリンを弾いたとしても、誰にも文句を言わせないために、必要な通過点だと自分にずっと言い聞かせて来た。コンクールやコンサートの度に、本当は身に纏うのを嫌悪している燕尾服の袖に腕を通して来た。それも全て、水の泡だ。
「つくちゃんさあ、夢があるって言ってじゃん」
「色々言った覚えはあると思うけど。アンタに吐かされて」
「ほら、戸籍をさ、女にしたいってやつ」
「あぁ……ほとんど無理かも知れないね」
大間知は出会った時から、心身共にパーソナルスペースが極めて狭い人間だった。ぐいぐい詰めて来る距離を鬱陶しいと思ったこともあるし、自分のような根暗なタイプとは真逆のグループにいる癖に、やたら親しくして来た。どうも、自分がバイオリンをやっていると言うことが物珍しかったらしい。だが、あまりに踏み込んで来たため、教室中を引かせるほど大間知に激怒して怒鳴って以来、安易にこちらにも同じだけのパーソナルスペースを求めなくなった。ただ、絡んで来ることに変わりはなかったが。
そう言うわけで、自分がソロ奏者を目指している理由も、その先の目的も、大間知は全てを知っている。だから、今回バイオリニストの夢を断たれて心配してくれているのだ。それくらいは感じ取れる。
「つくちゃん、死なないよな?」
富士の樹海にでも行きそうな顔をしていただろうか。大間知は真剣な声色でそう問うて来た。
「死なないけど死にそう」
誤魔化しても無駄なことは分かっている。だから、友人の問いに敢えて正直に答えた。大丈夫だなんて嘘でも言える精神状態ではないのも本音だ。大丈夫かと訊かれていたら、大丈夫なわけがないと激昂していたかも知れない。大間知は本当に、自分の性格を熟知していると思う。
「俺さ、自分の店持つのが夢なんだ」
「何、急に」
「美味しい料理を出す店なんだけど」
「アンタが行ってるの調理師学校じゃないでしょうが」
「うん。だから経営学んでさ、オーナーになろうかなって。バイトも飲食ばっか入ってるんだ」
夢を語る大間知の横顔は眩しい。滅多に聞いたことのなかった大間知の未来への展望は、期待に満ち溢れている。ふざけている奴だとばかり思っていたが、それなりの大学に行ってる人間らしく、考えていることは具体的で現実的だ。
自分も、つい一昨日まではそうだった。バイオリンが大好きだった。練習もコンクールもコンサートも好きだった。どれだけ辛い、苦しいことがあっても、自分にはバイオリンだけだったのだ。それが決して自分を縛っていたわけではなく、自分の明るい未来のため、無くてはならないものだった。
大間知と違う所は、失敗した時に何の選択肢もない所だ。大間知はこう見えて頭もいい。器用だし人を集め、動かすことのできる人間だ。高校生の頃も、高校生ながら「こういう人間が社会に出て成功していくんだろう」なんてぼんやりと思っていたくらいには。
対して自分にはバイオリンしかなかった。けれどそれはマイナスな意味は少しも持たず、バイオリンで成功を掴むと揺らぐことなく信じていたのだ。
「だからあと五年…いや、三年持ち堪えてよ、つくちゃん」
「なんで」
「俺が店開くから、店長やって欲しいなって」
「何言ってんの?」
間髪入れず突っ込んだ。飲食店のバイトの経験もない自分に、飲食店の店長が務まるものか。上に立つような人間でもなく、従業員を動かせるはずがないだろう。
しかし、大間知に冗談めかした様子は一切ない。至極真剣な話である。
「美味しい料理といい音楽をお客さんに提供するお店にしたいんだよね」
言いながら、てきぱきと手際よくまた一つ教科書を纏めて縛り上げる。よいしょ、と言いながら、ここまで積み上げて来た紙類の山にそれを積み上げた。その山は、国立音大に入ってから積み上げて来たものでもある。こんな所で諦めるはずではなかったものだ。
「だから、そこでつくちゃんがバイオリン弾いてくれるといいな」
「何の経歴もない人間のバイオリンなんて誰が聞くの」
「それはこれから経営戦略を練るよ」
「サーカスの象なんて嫌だからね」
「ちゃんとしたお店にするよ。そうだなあ、恵比寿とか代官山とかどう?」
「アンタ…何億借金背負う気よ……」
「酷いなあ、潰れる前提じゃん」
けらけらと可笑しそうに大間知は笑う。ぞっとしない話だというのに、なぜか大間知には自信しかないようだった。
「ヨントリーホールの舞台は用意できないけど、都内一の店にして見せるからさ。そこでつくちゃんのバイオリンを聴かせてよ」
それは、高校生の頃に話した夢だ。きっとプロのバイオリン奏者になって、ヨントリーホールの舞台に立つと。音楽のことなんてさっぱり分からない大間知にその意味が分かるわけもないのに、分かるはずがないからこそ、吐き出せた大言壮語だった。
あの時、ヨントリーホールが何なのかも分からない大間知は「へえ、すげえなあ」なんて返事をした。それが後日、ヨントリーホールについて調べてから「つくちゃん本気かよ!」と興奮しながら詰め寄って来た。あのやり取りも昨日のことのように思える。つくちゃんならできる、絶対できる、と何の根拠もないのに言ってくれたのも大間知だったし、一番いい席で観せてくれよな、と図々しいお願いをして来たのも大間知だ。いつだって大間知は、言われたい言葉を知っているかのようだった。
分かった分かったとおざなりな返事をしつつ、ヨントリーホールに立った暁には、最高の演奏を大間知にも聴かせてやろうと決めていた。感謝をしていないはずがない、この友人に。日本最高峰のホールとはどんなものかを、初めてのヨントリーホールを、自分のコンサートで味わって欲しかったのだ。
「大間知の癖にクソ生意気ね」
「憎まれっ子世に憚るらしいし」
「そう言うところ、本当にむかつくんだから」
「夢はでっかい方が良いって教えてくれたのはつくちゃんだからさ」
今度は、段ボールを組み立て始める。ガムテープを取り出すと、段ボールの底に十字に貼った。その中に、CDを丁寧にきっちりと詰めて行く。クーラーの風が大間知の金色の髪を揺らし、チカチカと光って、ぼやける。泣き止んだら手伝ってよ、と、見ないふりをせずに声をかけて来たのは、デリカシーがないのではなく、多分気遣いだ。
これじゃどっちの引っ越しか分からないからさ。そう続けて茶化して大間知は笑う。困った素振りも見せず、いつも通り笑ってくれたことが、その時の自分には唯一の救いだった。