どうしても、同世代に頭一つ飛び抜けている人間が二人もいれば、それ以下の人間は霞んでしまう。自分の結果が出ないことをその二人のせいにする訳ではない、単に自分の実力不足であることは百も承知だ。二人が努力を怠り運だけで賞を獲って来ている人間なら恨めたのだろうが、生憎とそうではない。実際、音楽という世界で単に運や才能だけでやって行ける人間がどれほどいるものだろうか。必ずそれらは、努力に裏付けられているのだ。
バイオリンもレッスンも苦ではないけれど、結果を残せないコンクールがこうも続いたことは、じりじりと僕を追い詰めていた。また一つ、三位入賞コレクションが増えてしまった。あまりにも不名誉である。
「仕方ない、という言葉は春輝にとっては何の慰めにもならないだろうね」
「学生ながら僕にもプライドってものがあるんですよ、大和先生」
「そうだろうとも。何よりも君のプライドを傷付ける言葉だ」
バイオリンの師である大和先生は、僕の性格もよく分かっている。だからこういう時の僕の扱い方も上手い。不用意に僕を励ましたり慰めたりしない。適切に、客観的に今日の講評を真っ先にくれる。人によって違うが、僕は褒められれば褒められただけ伸びる人間ではない。今日のような結果になった時、欲しいのは次の結果に繋がる正しい講評のみだ。
だが、何も分かっていない人々は言う。仕方ない、と。あの二人が同じコンクールに出ているなら仕方ない、と。何が仕方ないだ。それは諦めた人間の言う言葉ではないか。僕はまだ何一つ諦めていない。諦めていないからこそ、あの二人が同じコンクールに出ると分かっていて、出場をやめないのだ。
「そんな春輝にプレゼントをあげよう」
「なんですか」
「これ、読んでみなさい」
音楽以外の芸術を取り入れることも大切だと、師は常々言う。それは、音楽表現に感性が不可欠だからだ。そして、感性というものは音楽のみで磨かれるものではない。ドラマ、映画、舞台、漫画、アニメ、小説など、ツールは多岐に渡る。そのアドバイス通り、インドア、アウトドア問わず僕も色んな世界に手を出していた。全て、音楽をやる上で大切な経験値になると信じて。
今日、大和先生から手渡されたのは、一冊の本だった。文庫ではなくハードカバーで、表紙写真は真っ白な壁の空っぽなアパートの部屋だった。
「仁科晶穂……?」
「あまり知名度は高くないかも知れないけど、良い小説を書く作家だよ」
「お借りします」
「いや、それは春輝にあげよう。言っただろう、プレゼントだと」
講評はその後で、と、自分の今一番望んでいるものを出し惜しみされてしまった。どこかすっきりしないまま帰宅し、夕食も摂らずに自室に直行する。体のいい“宿題”だ。珍しく大和先生の言うことを素直に聞きたくない気分だった。けれど、これを読まないことには始まらない。
ベストセラーと呼ばれる作品には触れることもあるが、書店で平積みになっている作家の中に、この名前は見つけたことがない。なんとなく気が進まないまま、一ページ目を開く。話の書き出しはこうだった。“マンションの内覧会に行くのが、私の趣味である”―――。
***
「春輝くん、何読んでるの?」
「小説。はすみさんも読む?」
なかなかまとまった時間が取れないため、専ら最近の読書は待ち時間に行うものになっていた。今日も音楽番組の収録のためテレビ局に来たのだが、少し時間が押しているらしい。控え室での僅かな時間に、僕は先日買ったばかりの仁科先生の新刊を読み始めた。
せっかくなのではすみさんにも布教しようとしたのだが、曰く「活字を読むと眠くなる」らしい。いや、活字以外も大概眠くなっていやしないか、と思い返す。映画も眠い、舞台も眠い、ドラマも眠いと、音楽が関わらないとはすみさんはとにかく眠いらしい。どこにでも専門馬鹿というのはいるが、まさかはすみさんがそのタイプだとは思わなかったのだ。
「読みやすいよ、この作家さん。まあ無理にとは言わないけど」
「…考えておくわ」
「はすみさんって音楽以外へのアレルギーすごいよね」
「努力はしているつもりなんだけれど、どうにも眠いのよ」
「その割に清水藤也のヒーリング動画で全然寝付けないっていうのは、もう一種の特技だよ」
ハードなスケジュールをこなしていた期間、不眠に陥ってしまったはすみさん。自らいろいろ試した結果、清水藤也のお休み音楽よりも小説を読み始める方が入眠を促すには圧勝だったらしい。まさか、清水藤也の耳には入れられない話ではあるが。
「…帯、大和先生じゃない」
「大和先生、デビュー当時からのファンなんだってさ」
「じゃあ春輝くんも書く機会来るかも知れないね」
「だと良いんだけど」
多分、ヨントリーホールよりは近い気がするが、大和先生が手を付けておいて、自分にお鉢が回ってくるだろうか。とりあえず、インタビューを受ける機会があったらファンだって公言でもしておくか。
すると、はすみさんが僕の手元のハードカバーを凝視している。帯が見知った人物の書いたものだから気になるのだろうか。まさか、あのはすみさんがこの本に興味が湧いたなんてことはあるまい。
「…これ、買ったばかりで僕もまだ読んでないから」
「ち、違う違う!綺麗な表紙だなって」
「そんなに見られていると集中できないから、はすみさんはこっちでも見てなよ」
鞄からもう一冊、文庫本を取り出してはすみさんに渡す。ハードカバーでも持っているその小説をわざわざ文庫本でも買い直す第一の理由は、持ち歩きたいからだ。僕の今持っているものより一回り小さな文庫本を受け取ると、はすみさんは表紙をまじまじと見つめた。ぱらぱらとめくるものの目をチカチカさせている。…まずい、本番前に眠気を誘ってしまう。
「今度眠れなさそうな時に読みなよ。貸しておくから」
「あ、ありがとう……」
大学生の頃、荒みかけたことがあった。たった一つ欲しい賞に手が届かなくて、自分のバイオリンに自信もなくなった。そんな時に自分を救ってくれた一冊だということを、はすみさんは知らない。それでも、まあ、また寝つきの悪くなったはすみさんを、ある意味救う一冊になればそれはそれで無意味ではないか。
「ただ、汚したら許さないかも知れないから」
善処します、と妙な片言で返したはすみさん。譜面のたくさん入った鞄の中に、僕の『2LDK』はゆっくりと吸い込まれて行った。