「あすか!観に来てくれたのね!」
「もちろん、私も昨日終わったしね」
演奏を終えたばかりの友人に、私は舞台裏の廊下で声をかけた。
年度末の学内演奏会は、三日に分けて行われる。最終学年の生徒の多くが出演するこの演奏会は、うちの大学で最も盛り上がる演奏会だ。一年から三年の学生は選抜でしか出られないが、四年生は希望すればほぼ間違いなく出演することができる。
音楽家として最後の舞台となる学生がいることを踏まえて開催されるこの舞台では、フィナーレは専攻の分け隔てなく多くの学生が舞台から、客席から参加し、一曲のシンフォニーを演奏する。この四年、毎年涙を流す先輩たちを私も見送って来た。
私は卒業後も音楽の道以外は考えられなくて、プロにはなれなくても音楽を生活の糧のように考えている。だから、音楽を卒業して行く人たちのことを、毎年どこか他人事のように感じていた。けれど、この学内演奏会を目前に、同期生のバイオリン奏者、藤江成華から、これで音楽をやめることを聞かされた。いわゆる、いいところのお嬢様である彼女は、卒業後に結婚することが決まっているらしい。成績優秀である彼女が音楽の世界から身を引くことは、大きな損失だとさえ思う。
けれど、家に決められたことに反することができなかった彼女は、今日の舞台でバイオリンを置く。
「泣かないで、あすか。私、幸せよ。三歳から二十年間、大好きなバイオリンと片時も離れず過ごすことができたのだもの」
「でも、成華は本当に優秀で、いい演奏家で…」
「そうね、こんなもんじゃないわって思う。けれど、どうしても家を捨てられなかったの」
ここまで音楽に専念させてくれたことに感謝している、と彼女は言う。専攻は違うものの、成華は素晴らしい演奏家だということを私は知っている。そんな彼女がここで音楽人生を終えることに、私は悲しさや寂しさ、それだけではない、何か私の中でも大事なものが失われるような気がした。
私は彼女のバイオリンが大好きだった。コンクールや演奏会で、彼女の伴奏をしたこともあった。何度も何度も。彼女もまた、私のコンクールに応援に来てくれたことがあり、毎回成績も振るわないというのに、いつだって賞賛をくれたものだ。そんな彼女の言葉に何度救われたことか。彼女がいなければ、この四年間にいい思い出はなかっただろう。
決して楽しいことばかりではない音大生活。そこで、私たちはいつだって励まし合って来たのだ。
「あすかと演奏したことは人生の財産よ。きっと忘れないわ」
「私も……」
「あすかは世界一好きな、素晴らしいピアニスト……って、ああもう、泣かないでってば」
とうとうその大きな両目から涙が溢れる。これまで、どんなコンクールでどんな素晴らしい賞を取った時よりも、ぼろぼろの顔で泣く。
寂しい、悲しい、悔しい。私以上に彼女がそう思っているはずだ。バイオリンを愛し、音楽を愛した。将来を有望され、期待された。その期待に応え続けたバイオリニスト、藤江成華。私もまた、彼女のバイオリンが世界一大好きだ。
「あすか、きっとあなたはこれからの人生で素晴らしいバイオリニストにきっと出会うわ。そのバイオリニストたちの中に、いつまでも私も置いてくれたら、こんなに幸せなことはないわ」
「当たり前でしょ、こんなに私のピアノを愛してくれるバイオリニストもそうそういないんだから」
彼女と過ごした大学の四年間は、宝物のような日々だ。きらきらと輝いていて、その時間が遠くなってしまってもきっと褪せることはない。いつまでも、いつまでも。
「大好きよ、あすか。これからもずっとあなたの演奏を聴かせてね」
大きな賞を取ったこともない、知名度もない、ぱっとした成績でもない。そんな私を、四年間伴奏に選んでくれた。私のピアノを世界一だと称してくれた。彼女無くして私はここまで来られなかった。大した実力もない癖に、挫折しそうになったことも、スランプに陥ったこともある。
ずっと、成華が傍にいてくれた。良い時も悪い時も、成華が一番近くで見ていてくれた。彼女のために弾いた演奏もある。いつか、大きくなくていい、小さな会場でもいい、お客さんを入れて成華と演奏会を開きたいとも思っていた。
その夢が、今日で終わる。
「私も大好きよ、成華」
親友を抱き締めて同じ言葉を返す。二人分の泣き声が廊下に響いた。
この時間が止まればいいのにと思った。今日の演奏会が終わらなければいいのにと。当然そんなことはなくて、もうあと数組で三日間続いた宴も終わりを迎える。全員でのシンフォニーの時間が近付いて来る。
大学で音楽人生を終える学生は、成華だけではない。音楽を続けたところで有名な音楽家になれる人間だってほんのひと握りだ。そんな彼ら、彼女らが、この三日間、どんな思いで舞台に上がったことか。どんな気持ちでシンフォニーを演奏することか。私には想像することも烏滸がましい。
コンクールで大した成績を残せなかった私なんかが、卒業後に突然脚光を浴びるだなんて思ってはいない。けれど、辞めてしまえばそこで終わりで、ほんの指先程度の可能性だってなくなってしまう。私は自分の技術の限界を知りながら、それでもこれからもピアノを弾くことを選んだ。いや、選ばざるを得なかった。私にはピアノしかなかったのだ。
「あなたは世界で一番のバイオリニストだわ」
これからの私の音楽に幸あれと願ってくれた彼女のこれからの人生が、誰よりも幸せなものであることを、私も心の底から祈った。