生きている限り
その日、海のよく見えるホテルに私はいた。高層階のレストランは自然と背筋も伸びる。少し早く来過ぎたか、と腕時計を見ようとしたところ、「お待たせしました」と声を掛けられる。ウィーン帰りの瀬名はすみだ。一切疲れた様子を見せない彼女は、私に向けてにこりと笑った。
「ウィーン公演、お疲れ様」
「ありがとう。と言っても、まだ凱旋公演が残っているんだけど」
「ヨントリーホールね」
「ええ」
ランチの時間には遅く、ディナーには随分早い。周りの客たちもコーヒーなり紅茶を頼んでいる。それに倣い、私と瀬名はすみもいつかのように二人分のコーヒーをオーダーした。
瀬名はすみと城春輝は、先日までワールドツアーに回っていた。日本を飛び出し数か所、私には考えられないスケールの話である。友人関係に上下はないが、身に余る友人とでも言うべきか。彼女らは特にここ二、三年は忙しく、休みもないほどだった。音源の制作、リリース、ツアーを繰り返し、なかなか連絡も取れなかったほどだ。もちろんそれだけではなく、各メディアへの出演もある。
国際コンクールや海外留学の経験のないという瀬名はすみは、「もうしばらく海外はいいかな…」と苦笑いをして見せた。だが、そうは行かないだろう。なにせ相方はあのアグレッシブを絵に描いたような城春輝だ。海外の仕事のオファーも条件によっては受けてしまいそうだ。
瀬名はすみとは、並木夏海の件が落ち着いて以降、友人として付き合いを続けていた。休む間もなく行われるヨントリーホールでの凱旋公演にも、私は足を運ぶ予定だ。
「晶穂さんが来てくれるって聞いて、春輝くんが喜んでいたわ」
「そ、そう」
「忘れられないわ、試写会での春輝くんのマシンガントーク……ふっ」
「司会のアナウンサーの人、思わずぽかんとしていたものね…」
昨年、私の書いた小説が初めて映画化された。その際、挿入歌を全編担当したのが城春輝だ。試写会には私も城春輝も呼ばれたのだが、出演した俳優陣や監督、司会のアナウンサーを圧倒する熱弁を振るって話題となってしまった。ぽかんとする面々の中で、私一人頭を抱えてしまった。光栄なことではあるのだが、まさかカメラも入るようなあの場で、私にしてみせたのと同じ熱量で語ってしまったのだ。あわやネタバレ、と言った事態であった。
しかし、その映画はヒットし、原作となった私の小説も評価された。たちまち過去作も読まれ始め、出版された当初の評価が大きく覆ったのである。
会話が途切れたタイミングで、丁度よくレストランのスタッフがホットコーヒーを二つ持って来た。瀬名はすみは相変わらず砂糖もミルクも入れず、そのカップに口をつける。私は砂糖もミルクも一つずつ投入した。
「何があるか分からないね、生きてると」
「私も実感してる。まさかウィーンで演奏する日が来るなんて思わなかったもの」
「ありがたいことにね」
「本当に、本当にそう」
こうして、何か区切りとなる日に瀬名はすみと会うと、どうしても思い出すことは並木夏海のことばかりになる。特に、私たちにとっては共通の友人だった。彼女を介して私は瀬名はすみを、瀬名はすみは私を知っていた。ただ当時は互いを直接は知らず、変な話ではあるが、並木夏海の件がなければ一生接点のない相手だったかも知れない。
並木夏海が亡くなって三年が経つ。もう、と言うのか、まだ、と言えばいいのか。あっという間だったし、随分長かったような気もする。その間に東有理はミュージシャンを引退したし、松野陽加は出版社を退社した。私と瀬名はすみは友人になり、行原女史は結婚したし、城春輝と瀬名はすみは海外ツアーを回るほどになった。九十九店長のお店に出演する演奏家の顔ぶれも随分変わった。ただ、恵比寿に私が足を運ぶことだけは変わらないでいる。そして、私が小説を書き続けていることも、この三年間変わらなかった。
「夏海さんの件を追っている時、城さんに“どう終わらせようとしていますか”って聞かれたことがあるの」
「それで、仁科先生は?」
「生きている限り、書き続けようと思った」
生きている限り書き続ければ、生きている限り小説家だ。並木夏海は小説のような人生を歩み、命ある限り小説家でいたいと言っていた。それに感化されたわけではないけれど、彼女の死を目の当たりにして、決して書きたいものを書き切れるのが小説家ではないのだと知った。こんな崖っぷち作家でもまだ筆を折りたくないとは思っていたし、書きたいものを書き切れた感触も味わえたことがなかった。
手にしたコーヒーのカップをゆらゆらと揺らした。瀬名はすみのそれに比べ、中身は色もマイルドだ。ふと、瀬名はすみと目が合う。どちらからともなくふっと笑って、ほぼ同じタイミングでコーヒーを口に運んだ。
「夏海さんがこれからの人生で書きたかったものなんて分かるはずもないけれど、私にできることは書くことだけだと思ったから」
「そうね」
今でも、並木夏海の書いた『彼女が星になる前に』は私の中でも傑作であり、彼女の作品全てが手本のような存在だ。私が書きたくても書けない世界観、表現、日本語。彼女を越えられないまま、彼女は亡くなってしまった。時々、言葉に詰まると考える。こういう時、並木夏海ならどう書いただろうか、と。そういう話を生きている内にすれば良かったという後悔は、きっと一生消えることはない。
並木夏海に近かった人物それぞれが、抱える後悔は違う。その質も形も。瀬名はすみも瀬名はすみで、多くは話さないけれど思う所は色々とあるだろう。並木夏海の死因が公表された時にも、「ありがとうございました」と、たった一言だけ連絡して来たのだから。
「神戸公演にね、なっちゃんのお母さんがみえていたの」
「それは、はすみさんと夏海さんが友人だって知って?」
「ええ。私のピアノを初めて聴いた時のなっちゃんと同じことを言われたわ」
神戸公演とは、世界ツアーに出る前に行われた、皮切りとなったコンサートのことだろう。終演後、会う約束をしていたという瀬名はすみと並木夏海の母親は、控室で少しの間だけ話したという。私はあれ以来会うことはおろか連絡も取っていなかったので、その後が気になってはいたが、それなりに元気でいるらしい。
会った時のことを思い出したのか、瀬名はすみはわずかに目を細めた。
「人生で最後に聴くのはあなたのピアノが良い、ですって」
「人生で、最後に……」
「親子揃って物騒でしょう? でも、ピアニストには一番の誉め言葉じゃない?」
「そうね」
「親子なんだなって、思ったの。二人は親子なんだなって」
何か意味を含んだ口調で、二度繰り返す。そして、何か吹っ切れたかのように笑った。
「これで良かったって、ようやく思えたわ」
それは、ここ三年で一番清々しい笑顔だった。
誰もが進み始めている。並木夏海の生きた時間を確かに背負いながら、彼女の死に自分なりの折り合いをつけながら。松野陽加のようにすぐに納得できた人間もいれば、瀬名はすみのように三年かかる人間もいる。かと思えば、東有理のように一生折り合いなんてつけられない人間もいるだろう。
「晶穂さんは?」
「え?」
「晶穂さんは、どう?」
自分にその問いの矛先が向くとは思わず、言葉に迷ってしまった。
きっと、なんて答えても瀬名はすみは否定も肯定もしない。望んだ答えがあるわけでもないだろう。単に、私の心配をしてくれているのだと分かる。だからこそ迷った。たっぷり数秒躊躇った後、私は答えた。
「分からない、かな」
店長には最初から見抜かれていたことがある。それは、私が大して他人に興味のない人間だということだ。小説家としての好奇心は持ち合わせつつ、プライベートで踏み込もうなんて興味は少しも持てなかった。けれど、そんな私が最初に他人に強く興味を惹かれたきっかけは、皮肉にも並木夏海の死だった。折り合いなんてつけられるはずがなかった。
そして、東有理へ残した秘密を未だ背負い続けていることも、これで良かったと思えない一因としては大きい。だから、「分からない」と瀬名はすみにした回答は、私の本心ではないのだ。けれど、「そう」と相槌を打って、瀬名はすみは微笑む。そのたった一言に、なぜか酷く安心してしまった。そんな自分にぎくりとする。
(そっか、きっと……)
きっと東有理もこんな気持ちだったのだろうと、今更ながら分かってしまう。
また、生きている限り抱えなければならないものが増えてしまった。いつの間にか、並木夏海だけではなく、東有理も同じように私の心の奥深くに根付いてしまっていたのだ。
最後に聴いた、東有理の泣きそうな歌声が頭の中でリフレインする。並木夏海のことをずっと見守ってくれた人と歌い、二人の生まれ育った神戸をもう戻らない街と歌った東有理。どうしても、どうにかならなかったのかと、三年経った今も私は考えてしまう。
けれどやめられない、やめてはいけない。苦しくても、苛まれても、私はもう生きている限りは書くと決めたのだから。それが何よりの謝罪であり、贖罪であり、追悼になる。
少しだけ苦く思いながら、私はすっかり温くなったコーヒーを一気に飲み切ったのだった。