嵐の夜の子ども
五年前の激しい嵐の夜だった。遠い外出から帰ると、家の前に一人の赤子が置かれていた。激しい雨風などまるで聞こえないかのようにすやすやと眠る赤子を抱き上げてみると、一枚のメモが体の下から出て来た。“この子をお願いします。名前はイヴです。”とだけ書かれた紙切れは殆ど殴り書きで、何かがこのメモの主を急かしていたのかだけは感じ取れた。とはいえ、ここは託児所でも孤児院でもない。まして、数百年生きて来たにも拘らず、赤子の扱いなど自分には未知数だ。
「どうしたものか…」
悩んだ末、先程別れた友人を呼び戻すべく梟を呼んだ。真っ白な羽をめいいっぱい広げた梟は、嵐など物ともせず森を飛び立って行く。忠実で利口なかの梟は、そう時間もかけずに戻って来るだろう。
それまで、テーブルの上に赤子を置いてとりあえず待つことにした。
***
この城の朝は結構遅い。本来夜行性の魔女が日の高く昇る頃に目を覚まさなければならないのは、日々の拷問に近い。それでも無理矢理に目を覚ますのは、まだ五つになったばかりの人間の子どもがこの城を走り回っているからだった。
「ミリ! ミリ!」
「なんだ…朝から騒がしい…」
「今日の朝は卵って言った! もう昼よ!」
「私にとってはまだ朝だ…」
一人静かに暮らしていた森の奥のこの城も、人間の子どもが来てからというもの、毎日が騒がしい。人間のように昼間起きて夜寝るという生活も五年経つ。だがそれでも、数百年と夜の世界に生きて来た魔女であるミリにとっては、たったの五年でそう簡単に修正できるものではなかった。
丸い藍色の瞳がミリの顔を間近で覗き込む。人間の子どもには珍しい、宝石をはめ込んだような二つの目は、いつもミリを吸い込みそうになる。こんな非力で小さな人間の子どもに何ができるわけでもないのだが、時折ただの捨て子ではないのではないかと思うことがあるのだ。
痺れを切らしたイヴがミリの布団を引っぺがしてしまう。若干五つの体にそれはあまりに重く、反動でイヴは布団ごと床にひっくり返ってしまった。のそのそと起き上がり、ベッドの上からその様子を覗き込むと、何がどうなったのか、布団に絡まって短い二本の足だけが放り出されている。
「おい、大丈夫か」
「だいじょうぶない…」
「自力で起きるんだぞ」
「あう」
ミリはイヴを甘やかさない。どこであろうと転べば容赦なくそこに放置していた。泣こうが喚こうが意に介さないその様子に、時折様子を見に来る海外の友人が「厳しすぎやしないか」と意見して来ることもある。だがその意見に耳を貸さないミリの様子に、最早誰も口を出さないようになっていた。
「昨日イザベルが持って来た卵があったな」
「食べる」
ミリの一言にイヴは這い起きる。厨房へ向かったミリの後を転びそうになりながら追いかける。厨房の中でもあちこちを動き回るミリの後ろを逐一ついて来るが、それを邪魔だとあしらったことは過去一度もなかった。油が跳ねる際は流石に離れていろと声を掛けるが。
そうして、朝ご飯と呼ぶには遅く、昼ご飯と呼ぶにはやや早い食事が完成する。調理魔法が使えれば楽なのだろうが、生憎その手の便利魔法はミリは捨ててしまった。お陰で、料理も掃除も人間式だ。時折訪れる魔女仲間に毎度笑われるが仕方ない。大体、その彼女だって自分が家事代行で雇わなければいつだって金欠の癖に、とミリは毒づいている。
「ミリ」
「なんだ」
「今度サンドイッチがいい」
「……今度調べておこう」
思わぬリクエストにミリの頬が引き攣る。教えてもいないものを覚えて来るのは、多分に絵本の影響だ。「教育に良いらしい」と、ある友人は度々絵本を携えてこの城にやって来る。子どもの内に全て読み切れるのか分からないほどだ。ミリは、人間の成長が早いことをよく知っている。生まれたかと思えば、あっという間に死んでしまうことも。
「イヴ、今日は街に行くぞ」
「かいだし」
「帽子は被るのだぞ」
「髪も! 髪もやって!」
「分かった」
イヴの明るい金色の髪は街では目立つ。一つに纏めて帽子の中に隠してやらなければならなかった。この城ではイヴと同じく金色の髪をしているミリも、唯一自分の中に残っている変化の術で髪も目も黒に化かして森を出る。
俗世から離れて過ごしているミリだが、人間界のルールというものは熟知しており、決して侵さぬように生きて来た。人間はとうに魔女など滅んだと思っており、今更ミリの存在が明るみになることは徒に混乱を生むだけだ。他の人間ではない存在の平和すら脅かしてしまう危険もあり、それ故にこうして人間の近付かない森の奥で生きているのである。
「りんご食べたい」
「時期ではない。市場に出回っておらん」
「む…」
一気に分かりやすく落ち込んだイヴを見て、ミリは世界中を飛び回っている友人に頼んでみようかと思ったのだった。
ずっとずっと昔の話。森の奥の古城には、魔女と人間の子どもが二人でひっそりと住んでいた。