東からの客人
「ほ、いつ見ても可笑しい」「何がだ」
大きな祭事が落ち着いたからと、久し振りに東の国から客人がやって来た。確かに先日、「その内行くぞ」と手紙を寄越していたが、予想より数日早い。まだ掃除も呼んでいないのに、これから彼女はしばらくここに滞在するらしい。
玄関ではなくミリの部屋の窓から現れた客人は、「よいしょっと」と言いながら窓枠から降りた。その動作と共に、シルクのような艶やかな黒髪が舞う。本来の姿はそれではないと言っていたが、彼女の国の人間と同じ黒髪黒目が気に入っているのだと、いつだったか話していた。
「気にせんぞ、昔のボロ小屋より余程快適じゃ」
「ボロ小屋で悪かったな」
「あれはあれで趣があったのじゃが……おお、また大きゅうなったな姫よ」
「こんにちはヨーコ!」
イヴが駆け寄ると、ヨーコと呼ばれた客人は子どもを軽々と抱き上げる。ヨーコというのは彼女の本来の名前ではないのだが、強ち間違ってはいないため、本人もミリも訂正はしていない。
切れ長の目を更に細めてイヴを見るヨーコ。城にはミリのあらゆる友人が訪れるが、イヴもまたヨーコには特別懐いている。この城の前にイヴが捨てられていた時、助言を求めて呼び寄せたのがヨーコだということを考えると、自然なことなのかも知れないが、あんな乳児に記憶などないはずなのに不思議なものだと思う。
起きたばかりだったミリは紅茶を淹れようとしていたのだが、ヨーコの訪問を受けて淹れる茶の種類を変えた。ヨーコは紅茶が苦手なのである。以前、彼女の国のお茶をストックとして持参したことがあり、棚の中からその缶を取り出した。
「ほぉら、お土産じゃ」
「これはなあに?」
「猿はじき」
「これは?」
「さるぼぼ」
「猿ばかりではないか」
気前がいいのは悪いことではないのだが、何せこの客人は土産の趣味が毎度独特過ぎる。いつだったか「苦労したんじゃぞ!」と赤備えを背負って来られた時には流石に突き返しそうになった。真っ赤な甲冑を見たイヴが怖がってしまって以来、城の物置で眠ったままになっているが。
「まだあるぞ」
「もういい」
「特別に焼いてもらった。信楽焼じゃ」
「しららきやき?」
「のんのんじゃ姫、し・が・ら・き・や・き」
「し、ら、ら、き、や、き」
「ミリ」
「無駄だぞ、まだイザベルも呼べん。お前だって未だにイヴと呼べないだろう」
残念じゃ、と言いながら取り出したのは立派な壺だった。場所を取るようなものを土産にするなと言ったことを、ヨーコは覚えていないらしい。なぜか誇らしげにぺちぺちと壺を叩いて、その壺の素晴らしさを語るが、あまり頭に入って来ない。
イヴも飽きてしまい、ヨーコの持って来た唯一まともな土産物である饅頭にかぶりついている。湯気の立ったお茶の入った湯呑に手を伸ばそうとしたため、火傷しないようにと声を掛けた。それを見てヨーコもいれたてのお茶をずずず、と飲む。最初はぎょっとしたが、もう見慣れてしまった彼女の作法だ。
「注目して欲しいのはここじゃ!」
止まったと思った壺自慢が再開されてしまう。テーブルの上でくるくるとその壺を回すと、彼女の国の言葉で何か文字が書かれていた。
「…見覚えがあるぞ」
「おお、嬉しいな! いつぞや我がお主に送った名じゃの! 我の国の字でお主の名前が書いてあるぞ!」
もう百年は前の話になるだろうか。彼女の国を旅行した際、彼女の国での名前を賜ったのだ。こんな調子でも彼女は国では神階の高い神らしく、国では借りて来た猫のように大人しかったため開いた口が塞がらなかった。そんなヨーコから名前を貰うということは大層有り難いことらしいのだが、その国の内でしか使わないため、ミリ自身も時折忘れかけている。
「ヨーコの国、イヴも行きたい」
「訪れた際には歓迎しよう。待っておるぞ」
「イヴにもお名前くれる?」
「勿論じゃ…と言いたいが、お主の名前は我の国では少々難しいのう…」
イヴの名前の発音は、ヨーコの国にはないらしい。うんうんと唸った後、袖からノートと筆を取り出した。大概のものがあそこから出て来るのだが、長い付き合いのミリはもう突っ込むことはしない。イヴくらいなら入れるのではないかと訊いた所、意味深な笑みを見せられて以来触れないようにしているのだ。
テーブルに広げたノート―――この国のものとは綴じ方が左右逆だ―――に、いくつも漢字を書いている。イヴの音に合う漢字を当てるべく、思いつく限りの漢字を書き出しているのだという。ミリの時はさほど悩まずに案を出していたはずだが、アルファベットよりよほど種類のある漢字を以てしても、イヴというのは表現しにくいらしい。
「ふむ、これじゃな。女の子らしい名じゃ」
「これ?これイヴのお名前?」
「どういう意味だ?」
「
もう一つの案、“依舞”を書き出してミリとイヴに見せる。それを見て思い出した。ミリに贈られた名前は“実俐”だ。実俐の名をつける際も「利かの~、俐かの~」などと悩んでいたのだ。ミリとしてはどっちでもそう変わらないように思ったのだが、漢字というのはほんの少し足したり引いたりするだけで随分と意味が変わるのだと、ヨーコが以前力説して来た。
清書された和紙を渡され、それをきらきらとした瞳で眺めるイヴ。かと思えば、テーブルに置いて何かを思いついたかのように部屋を出て行く。やがてまた走る足音が聞こえ、戻って来たイヴの手にはノートとクレヨンが握られていた。
「練習するの!」
「ほお、利口じゃの」
クレヨンを握り締めて早速書き始めるが、アルファベットも儘ならないイヴが手本通りに書けるはずがなく、ヨーコの書いたものとは程遠い。アンバランスな書体を繰り返し繰り返しノートに敷き詰める。やがて、本人としては納得するものが書けたのか、「見て!」と嬉しそうにノートをミリに見せる。
「その調子で励むんだな」
「もっと褒めてやらんか、ミリ」
「ねえねえ、ミリのかんじも教えて」
「ほれ、こう言っておるぞ」
「お前が教えてやればいいだろう」
「おやおや? ミリは我が遣った名を書けぬというのか?」
愉快そうに目を細めるヨーコに、期待の眼差しを向けて来るイヴ。う、と息を詰まらせてミリはイヴからクレヨンを受け取る。
「覚えておけ、この狐め」
「我にそんな口聞けるのはお主くらいじゃのう」
ミリの書いた名前もまた、決して綺麗とは言えないバランスのものだった。