確かに楽しいと思っていたピアノが楽しくなくなるまでにそう時間はかからなかったし、何か理由でもあれば辞めてしまいたい気持ちでいっぱいだった。それでも辞めることができなかったのは、音楽をしていなければこの家に居場所がなかったからだ。ピアノ以上の価値を、母親は私に見出していなかった。
言われるがまま音大へ進み、可でもなく不可でもない成績を残して卒業した。その三年後、妹はもちろん主席卒業、海外留学も経験し、コンクールでは軒並み優勝金賞入賞。音楽事務所とも契約し、CDまで出る始末。こうなれば親の興味など私にはないも同然で、クラシックの方面でピアノの仕事をしない私にも、なんの文句もなかった。
そんな矢先、順風満帆かと思われた妹がドロップアウトした。
「バイオリンを辞めるぅ……?」
我が家にとっての大事件は、憔悴しきった母親からでも、当事者である妹本人からでもなく、祖父から電話で聞かされた。最近スマートフォンを新調した祖父は、週に数回私に電話をかけることを楽しみにしているらしい。残念ながら、今日は楽しい話題ではないようだが。
歩いて十五分ほどの距離に住んでいる祖父とは、交流も頻繁にある。とはいえ、そのような大事なことが同居家族から聞かされないことに、私は部外者意識が強くなった。持病があるらしい、と心配を含んだ声が電話の向こうから聞こえる。
「そんなこと聞いたことなかったけど…」
「あすかも大丈夫か心配になったのさ」
「大丈夫、私はいつも通りよ」
ここ一週間ほど、家の中がなんだかぎすぎすしているとは思っていた。珍しく母と妹が喧嘩でもしたのかとは思っていたが、想像よりも重い一件らしい。
小さい頃から母がまどかにかけていた期待は異様なほどだった。自分から妹にそのプレッシャーが移って初めてそれが普通ではないことに気付いたのだが。
音楽に関してはほぼ素人の祖父は、ピアノに関してほぼ放置になった私を気にかけてくれた人物の一人だった。放置になったと言うのは、レッスンを受けさせないとかそう言った意味ではなく、コンクールの結果も進学する音大に関しても何の口出しもされなくなった、ということだ。だから正しくは放置ではないのだけれど、周りから見ればあれほど私に厳しかった母が何も言わなくなったことは、放置らしい。私としては、かなりのびのびやっていたつもりだ。
「まどかな、手術しないとバイオリン弾けなくなるって言われたんだと」
「なにそれ」
「じいちゃんもよく分からんが…」
「ごめん、私も最近まどかとあんまり話さないから分からないや」
「いやまあ、あすかが元気ならそれでいいよ。何かあったら言っておいで、あすかもまどかも」
分かった、と言って通話を終える。
複雑な気分だった。姉妹仲は不仲ではないものの、生活リズムも何もかも違う私と妹では、家の中で顔を合わせる時間も少なく、会話もほとんどなかった。片やプロの音楽家、片やその辺のバーでのらりくらりとやっている音楽家―――意識も違えば責任感も知名度も違う。客層も報酬も会場の規模だって。そんな二人が家の中で話が合うはずもないのだ。
あすかはプロのピアニストになるのよ、と言う言葉が、自由にやって良いのよ、になった時、私はある種の燃え尽きに陥っていた。音楽しかやって来なかった私に音楽の仕事以外考えられなかった。けれど、もう一度コンクールの表彰台を目指すほどの情熱も持てなかった私は、結局あちこちのバーでピアノを弾いたり、サポートを頼まれれば弾きに行ったりしている。
今夜の仕事の支度をしながら、今日もリビングで憔悴している母親を思い出した。かの母親はきっと、私が今ピアノを弾けなくなったとしても、あそこまで落ち込みも動揺もしない。私がこんな時間からの出勤で、終電も終わる頃に帰宅するようなピアノの仕事をしている事も、何とも思っていないのだろう。プロのピアニストを育てる仕事から解放された母とは、寧ろコミュニケーションは円滑だと思う。けれど、妹と母はどう見ても健全な親子関係とは言えないような気がしていた。
「お母さん、仕事行って来る」
「ああ…行ってらっしゃい、気を付けるのよ」
「…夕飯、作っておいたからあっためて食べなよ」
「あすか、あなたいつの間に料理なんてできるようになったの」
幼い頃は、手を傷付けるといけないからと、包丁どころかハサミも握らせてもらえなかった。小学生になってからもそれは続いたが、中学になればほぼ母親の目も離れ、調理実習では包丁を使い放題だったのを覚えている。
けれど、料理をし始めたのなんてもうとうの昔からだ。それ程までに目の前の母親は私に興味がなかったのか、といっそ感心してしまう。母が私のプロのピアニストとしての道を諦めたように、もうずっと前に私もこの人に“母親”を諦めている。そうでもしなければ、この家で普通に生活することは困難だったのだ。音楽を真剣にやるには、この家は恵まれているのかも知れない。音楽をやらなければ人権がない訳ではないが、実の親にすら興味を持ってもらえないのだ。
「まどかじゃないんだから料理くらいできるよ」
それは、精一杯の皮肉だった。けれど、まどかの名前を出した途端、母親は黙ってしまう。地雷でも踏んでしまったか、と内心焦っていると、母は大きな大きなため息をついた。
「手術受けたくないんですって、まどか」
「そ、そうなんだ…」
「まさか、頸椎ヘルニアだなんて」
「けいついへるにあ…」
最近、同じ病名を仕事先で聞いた。確か、今日の職場の副店長が来月その手術を受けるのだったか。参ったよ、なんて笑っていたのを思い出す。笑い事ではないだろうに。祖父の話によると、結構前から患っていたらしく、今では手の痺れも酷いらしい。それでよくバイオリンなんて弾いていたものだと、そのプロ根性にも感心した。
とりあえず、今はのんびり話を聞いている場合ではない。私も出勤時間が迫っているため、「また明日ゆっくり聞くから」とだけ言って家を出た。
めんどくさいな、と言うのが最初の感想だった。家の中でのことにも拘らず、私にはやはり他人事でしかなくて、妹の話を聞いてやろうとか、そんな姉心も生まれない。こんな時に姉貴面なんてされたくないだろうし、まどかだってもう立派な大人だ。自分の進退や治療をどうするかくらい決められるはず。母親にとってはいつまでも未成年の子どものつもりなのだろうが、きっと母が思っている以上に自分のことを決められる人間になっているのだ。だから、妹がどんな選択をしようと口出しするつもりはないし、落ち込む母を宥めるくらいはしてやろうとは思っていた。
思っていたが、その結果は夢にも見ていないものだった。
「…いや、今なんて?」
帰りが遅かったため、まだ眠いというのに早朝に起こされた私は、一瞬で眠気が吹き飛んだ。
「まどか、駆け落ちしたって…」
「は……?」
一体どこにその行動力を隠していたのか。まどかは、バイオリンを持って家から姿を消した。まさかの、駆け落ちというオプション付きで。