まどかは真逆で、本当に私と同じ血が流れているのかと言うほど、ストイックに誠実にバイオリンに向き合っていた。
「あすかは色んなことができるね」
小さい頃、祖父に言われたその一言が何より嬉しかったのを覚えている。友達から、周りの大人から言われる「ピアノが上手ね」という言葉よりも、ずっと。妹と同じ土俵に立たない部分を見てくれていた祖父に、私は誰よりも懐いた。
まどかはまどかできっと長く悩んで来たのだと思う。それこそ、友達と遊ぶ時間も、音楽以外の勉強をする時間も、全て削って音楽に捧げて来た。今の結果は、そんなまどかの努力について来た然るべきものだ。おいそれと容易に誰もが手にできる地位でないことは私も理解していて、今更私がどう足掻いても得られる賞賛ではない。それが欲しいかと言われれば首を傾げてしまう所があるので、詰まる所は、そういう事なのだが。
「で、その後、妹さんは見つかったの?」
後日、出勤すると店長に声をかけられた。流石に駆け落ち騒動の話を聞いた日は気も気でなくて、仕事も注意力散漫だった。おかしいと勘づいた店長に呼び出され、事情を話すに至ったのだ。もっと叱責されるかと思ったのに、店長は話を聞くや否や私を指差して大笑いした。当然だが私は駆け落ちの当事者ではない。
「もちろん。母親の早とちりですよ、何が駆け落ちなもんですか。主治医の先生の所に転がり込んでたんですって」
「あらァ、このご時世にドラマチックかと思ったのに……って、なんですって?」
私の妹が世界的バイオリニスト、星名まどかであることを知る人間は、身近には少ない。履歴書を見てピンと来た店長や副店長は事情を知っているが、わざわざ晒して良い目に遭ったこともないため、偽名―――芸名を使って活動をしている。元男性の女性店長はミーハーなようで、元々妹のことを知っており、「まァ私は若手バイオリニストなら芳井君派ですけどね」と主張して来たことも、昨日のことのように覚えている。語尾にはハートマークが付きそうな声だったことも。
顔が似ていないことが幸いして、同僚たちにも一切発覚はしていない。大学で仲良くしていた同期生たちも、こういった世界に進まなかったため遭遇することもなく過ごしている。ただ、その事実に安堵しているということは、それでも何より妹に対してコンプレックスを抱いている証明に他ならない。結局逃げられないのだなあ、とため息を吐きながら控室に向かう。後ろではまだ店長が「ちょっと詳しく教えなさい!」と吠えていた。
***
そろそろお店やピアノサポート以外仕事がしたいなあ、などと、お得意の飽きが来る頃、実にタイミング良く仕事が舞い込んで来た。それは、普段のお店での演奏の仕事ではなく、サポートピアノのお仕事の現場でだった。紹介したい人がいる、と言われてバンドメンバーに引き合わされたのは、同年代くらいの男性だった。
「僕、こういう者なのですが」
「バイオリニスト、音楽ユニット主催……城、春輝さん?」
名刺に書かれた肩書きと名前を読み上げる。私も仕事用の名刺を渡す。星名あすかではなく、芸名の瀬名はすみのものだ。当然向こうは私のことを知っているだろうが、私の名刺も受け取るとちらりと見た。
「固定メンバー僕だけなんですけどね。もう一人くらい固定メンバー増やして、ちょっと真面目に世間に売り込んで行こうかと思ってるんです」
促されるがまま、渡された名刺に記載されているQRコードをスマートフォンで読み込み、音楽ユニットのホームページを開いた。意外としっかりしている公式ホームページのようだ。過去一緒に演奏をした面々の中には、私と同じ大学卒の奏者や、私も良く知る奏者の名前があった。ホームページにはサンプル音源もあり、再生ボタンをタップする。固定メンバーは城さんのみと聞いた通り、音源により入っている楽器は違う。既存のクラシックを元に大幅アレンジしているものから、オリジナルの楽曲までジャンルは様々だ。
けれど、クラシックの現代アレンジという点に、私は顔をやや顰めてしまった。それは妹の得意としている分野でもあったからだ。彼女はクラシック音楽を譜面通りにというだけでなく、自分流にアレンジする才も持っている。星名まどか編曲の新編クラシックCDも出しているほどに。特に人気が高くコンサートで毎回演奏されるのは、パッヘルベルのカノンだ。決して難易度の高くないあの楽曲を、それなりの技巧を交えつつ可愛らしさを加味したアレンジは、いい意味で星名まどからしくないと絶賛されているのだ。
しかし、残念ながら私はピアニストでありながら編曲の能力には恵まれなかった。技術だってプロにはなれなかったレベルだ。そんなお世辞にも成績上位で卒業したわけではない私に、声がかかったことが不思議でならない。もしや、私が星名まどかの姉だと知った上で声をかけて来ているのだろうか。私を伝手に妹とコネクションを持とうとした人が近付いて来たのは、これまで一度や二度ではなかった。
すると、怪訝そうにする私に城さんは裏のなさそうな笑顔で言った。
「瀬名さん、ピアニストの割に目立つの好きじゃないでしょ」
「……そうですね」
「僕、目立ちたいんですよ」
「はあ…」
「でも、技術がありつつ目立ちたがりじゃないピアニストって、僕の周りにあまりいなくて」
でしょうね、という言葉が思わず出そうになる。私は、お店では一人で演奏することは少ない。その殆どに、主旋律を任せる楽器奏者がついている。その演奏を見て、これだ、とぴんと来たらしい。もちろん中には、私のように目立たなくて構わないというピアニストはいるが、生憎彼は出会えなかったということだ。
ピアノは、それだけで打楽器以外のオーケストラの全パートを担当することができる。それが楽器の王様と言われる所以なのだが、恐らく、極める所まで極めてしまえば、それは打楽器以外を必要とせず曲を成立させてしまえるということ。それぞれの音色だとか完成度だとかはさておき、不可能か可能かと言われれば、可能である。ピアノの音だけでは随分喧しくなってしまうので、やろうとは思わないが。
もちろん、他の楽器のコンクールの伴奏を、と言われれば当然他の楽器を引き立てる演奏をするだろう。けれど、私のように活動する上で一切目立たなくて良い、というピアニストはきっと稀だ。
「僕にとって瀬名さんは貴重な奏者です。ぜひ一度一緒に演奏してみたい」
「先程言われていた、世間に売り込む、と言うのは」
「星名まどか、芳井祐介」
「はい?」
「現在の日本バイオリン界のツートップです」
確かに、あの二人は幼少期から競って来たライバル同士である。同じ時代にとんでもない若手が二人も現れた、と随分騒がれたものだ。音大でも僅差でまどかが首席卒業を勝ち取ったらしいが、その実力は甲乙つけがたいと言う。
だが、肝心の星名まどかの方は、先日母にバイオリンを辞める宣言をし、事務所に休業を要請した挙句、主治医のお宅に間借りしているらしいが。その二人に城さんが勝ちたいと言うのなら、星名まどかとの勝負はもう叶わないかも知れない。
「僕一人であの二人に知名度が勝るとは思いません。それはコンクールの結果を見て明らかです」
「…………」
「けれど、ストレートが駄目なら変化球です」
「変化球ですかね、これ。一対一対二って、フェアではないと思いますが」
「この際なんだって良いんです、僕の関わる音楽が彼ら以上に世間に認識されれば」
言っていることはふざけているようだが、その声音は真剣そのものだった。目の前にいるのは、私がずっと昔に諦めた頂上への道を、まだ諦めていない人間だ。ここから巻き返そうと思えば、きっと思った以上に過酷だ。思い通りになんて行かないだろうし、想像以上に時間もかかるだろう。私か彼にそれなりの知名度があれば、或いは何か近道があったかも知れないが、それも望めそうにない。唯一使えるとするならば、売名行為と言われるだろうが“星名まどかの姉”を押し出すことくらいだ。果たして、彼女を超えることを目標の一つに据えている彼が、それを良しとするだろうか。
頭が痛くなって来た気がする。私は、頂上を獲りたい人間ではなかったはずだ。ピアノとは適当に、適度に付き合い、生活ができればそれでいいとさえ思っていた。プロは苦しい。好きなものを仕事にするのは、きっと私には向かない。
(……好き?)
好きだろうか。今、私はピアノが好きだろうか。仕事にすればピアノが嫌になり、弾くのも苦痛になってしまうほど、好きだろうか。いや、案外仕事だと割り切れたりしないだろうか。幼い頃のように母親の顔色を窺ったり、取らねばならない賞のためではない、仕事のため、生活のためならば、もう一度技術を磨く気になったりしないだろうか。芸術家としてのピアニストではなく、職業としてのピアニスト―――それはきっと、似て非なるはずだ。変な話だが、人生を捧げるほど好きではないからこそ、もう一度ちゃんとやり直すことができはしないだろうか。
「…私、飽きっぽいんです。またお店変えようかなって思っていたくらいで」
「飽きる暇ならないと思いますよ。ゲスト奏者も演奏ジャンルも目まぐるしく変わります。きっと、店付きのピアニストよりも技術は求められると思います。いや、求めます」
「今、あんまりピアノが好きとも言えないんですけど」
「そうなんですか?少なくとも演奏を聞いた限り、嫌いそうじゃないんで問題ないと思います」
連続再生されていたサンプル音源が、最後の一曲だったようでぷつりと切れる。それは、城春樹による編曲、バイオリンとドラムのためのカンパネラだ。ここに自分が入るとしたら、どうなるだろう。バイオリンを最大限引き出しつつ、超絶技巧と言われるリストのカンパネラを織り交ぜるとしたら―――想像を膨らませる。
これから目指すところは、コンクールのように分かりやすく目に見える結果は得られない。クラシックアレンジなんて、それこそ何番煎じだと言う酷評も浴びることだろう。それでもなぜだか、興味を惹かれている自分がいる。
なんでもできるね、と祖父に褒められた幼少期、その言葉が嬉しかったのは嘘ではない。けれどそれとは別に、誰かにピアノ奏者として求められたい自分も、確かにまだ存在していた。巡り巡って、今その時が来ている。まずは、目の前のバイオリニストになんでもできるピアニストだと認められたい。二大若手バイオリニストを越えるために、私の、瀬名はすみのピアノが必要不可欠だと言われたい。
「城さん、ぜひよろしくお願いします」
「こちらこそお願いします、瀬名さん」
頭を下げ合って、おかしくなって笑う。きっと、過酷でもここから先は暗くはない。何の根拠もないのに、そう信じることができた。
「一つ、先に城さんに言っておかないといけないことがあるんです」
「なんですか」
こんな時にそんなことしている場合じゃないでしょう、という母のヒステリーな声が頭の奥で響いたような気がする。まどかを説得して、まどかに治療を受けさせて、まどかに事務所に謝るよう言って―――容易に想像できるそれらの台詞。けれど、すぐにそれらは消えてしまう。今更姉らしいことなんてするつもりはない。ましてや、全く別のフィールドにいる私に、彼女の仕事に口出しする筋合いはない。
「私、星名まどかの姉なんです」
けれどきっとこれは、隠すことでもないはずだ。事実はただ、事実でしかないのだから。