第一話

 夜の薬剤部は寒い。それは、薬剤の品質を保つべく一定の温度で管理されているからなのだが、冷え性の私には堪える環境である。日中の勤務であれば、薬剤部の中だけでなく病棟や外来患者の対応で外へ出ることもあるのだが、夜勤はそれもない。むしろ、薬剤部の中での仕事がほとんどであり、しかも夜間は一人のため余計に寒さを感じる。
 一晩ですっかり冷えてしまった体を擦って、交替となる日勤者に挨拶をした。プライベートでも仲良くしている後輩を見つけ、声を掛ける。

「おはよう、浜野さん」
「お疲れ様でーす…って、藤倉さん顔色悪ぅ…」
「なんかすごい冷えたんだよね」
「風邪ひく前に帰った方が良いですよ。今日ちょっと肌寒いし、私も着込んじゃいました」

 四月末とはいえ、今年はなかなか暖かくなる気配がない。後輩のアドバイスに頷いて、もう帰るとこだよ、と返す。薬剤部長に会う前にね、と浜野さんは悪い顔をした。
 今年の春、昇格の話が出ていたのだが、私は断った。しかし部長は諦めていないらしく、私を見る度にそれとなく話を持ち掛けて来るのだ。
 昨年、退職続きだったうちの薬剤部は深刻な人手不足に陥っている。役職付きだった薬剤師も退職しており、昨年からずっと部長は頭を抱えている。随時募集している医師や看護師とは違い、空きが出ない限りは募集を出さない薬剤師も、今は随時募集しているところだ。この春の定期募集も、例年より多く募集枠を取っていた気がする。
 もちろん新人教育などには協力を惜しまないが、それと私が昇格するのとはまた別の話なのだ。まさか断られると思っていなかったらしい部長は、私の目の前で混乱していたことをよく覚えている。翌日、浜野さんはじめ薬剤部の人間から大笑いされたことも。

「藤倉さん、来週のランチ忘れないで下さいね」
「誕生日でしょ。大丈夫、予約は取ってあるから」
「じゃ、お疲れ様でーす。良い休日を」
「どーも」

 底抜けに明るい後輩が手を振って薬局から送り出してくれた。ハードな仕事なのに笑顔を忘れないのはいいことだ。その資質を見て、部長も小児科病棟の服薬指導には彼女を上げている。私が部長でもそうするだろう。逆に私はあまり愛想のいい方ではないので、浜野さんが入職してから特に、小児科病棟に上げられることは少ない。
 更衣室で着替えを済ませ、脱いだ白衣をランドリーボックスに投げ込む。洗濯業者の回収日は明日のため、ボックスの中は色んな職種の白衣でてんこ盛りになっている。

「お疲れ様です」
「お疲れ様でーす…」

 更衣室を出ようとしたところ、すれ違いで入って来たのは病棟看護師だった。疲れた様子の彼女は、挨拶の声も暗い。私たちには想像できない壮絶な夜が病棟にはあるらしい。大変だな、と横目で見ながら私は更衣室を出た。
 私服で病院の外に出ると、浜野さんに言われていた通り肌寒い。ただ、冷蔵庫の中にはほとんど何も入っていなかったはずなので、スーパーに寄って帰らなくてはならない。夜勤明けには痛い太陽光に目を細めながら自転車をこぐ。
 電車で通勤したくなかった私は、ここから徒歩でも通勤できるような距離に住んでいる。駅も近くてスーパーもドラッグストアもある。住むにはうってつけの街だ。住んでいるマンションの近くにコンビニもあり、何も不自由はしない。生まれがコンビニ一つなかった田舎のため、この便利さを味わってしまうともう二度と都市部から離れられないと感じている。
 いつも立ち寄るスーパーで買い物を済ませ、マンションへ帰宅する。その敷地内の駐輪場に自転車を置きに行くと、平日と言うこともあってこの時間は多くの自転車が出払っている。
 自転車を止め、ずしりと重いエコバッグを籠から持ち上げる。夜勤明けはいけない。判断力が鈍るため余計なものを買いがちだ。
 ぼんやりしながらマンションのエントランスに向かう。するとそこには、どこか見覚えのある人物がいた。一人の大人と一人の子どもは、二、三年前に年賀状で挨拶したのを最後に、交流のなかった従姉妹とその娘ではないだろうか。
 思わず荷物を落としそうになった。海外旅行にでも行くつもりかと言う大きさのキャリーケースは、彼女の子どもよりも大きい。買った当初、娘が入りたがったであろうことは容易に想像できる。漫画であれば目が点になっているであろう私を見て、「詠実ちゃんおはよう~!」と軽く普通の挨拶をする。そして挨拶もそこそこに、なんてことないように従姉妹は言った。

「離婚しちゃった!」

 こんなポップな離婚報告は生まれて初めてだった。今度こそエコバッグが手から滑り落ちる。中身が廊下に散らばり、彼女の娘が「あー!」と言いながらその中身の一つ、食パンを拾ってくれる。卵が入っていなかったことは不幸中の幸いだろう。

「はいっ!」
「ど、どうもありがとう…」

 なんの曇りもない丸い目でこちらを見上げて来た。確かまだ保育園児だった気がするが、ほとんど親戚付き合いもなくなっているため、この子どもの正確な年齢は分からない。
 りこん。先ほどの言葉を頭の中で反芻する。別に聞き馴染みのない言葉ではないが、私には無縁の言葉である。いまいちその言葉の持つ現実味を感じられないまま、今度は従姉妹を見た。にこにことしている。とってもにこにことしている。晴れやかとでも言おうか。

「とりあえず、上がってく…? よね…」
「お邪魔しまーす!」
「おじゃましまーす!」

 これ、本当に離婚直後なのだろうか。



***



 母方の従姉妹である果林ちゃんとは、家も近く子どもの頃はよく交流があった。私より一つ年上の彼女は大学入学時に地元を離れたため、それ以降顔を合わせることも少なくなっていた。私も私で高校卒業と共に実家を出て、それ以来地元にはほとんど近寄っていない。不規則勤務であることを理由に、お盆も正月もほぼ帰省していないのだ。
 確か、果林ちゃんは大手の銀行に勤めていたような、公務員だったような。彼女の結婚式には呼ばれたため顔を出した記憶があるが、彼女の旦那の顔は最早おぼろげだ。

「何年振りだろうね! この子会ってるっけ?」
「会ってないんじゃないかな……えーと…みづきちゃんだっけ?」
「ひづきだよ。今年六歳になるから…六年は会ってないってことかな」

 職場でも思うが、最近の子どもの名前って難しい。カルテでふりがなを確認しないと読めない名前がほとんどである。
 ジュースを常備していないため、陽月ちゃんは私の入れた熱いココアをちびちびと飲んでいる。果林ちゃんには紅茶を出した。
 六年ぶりの従姉妹との再会に、何を話せばいいやら分からない。離婚と言っていたが、何をどこまで突っ込んでいいのやら。しかし気まずいと思っているのは私だけのようで、目の前の親子はマイペースにおしゃべりをしている。
 彼女の抱えて来た大荷物を一瞥した。あれは多分、ここに泊めてくれという話なのだと思う。きっと口の軽い両親のことだ、私が二部屋付きのマンションに住んでいるということでもぽろっと喋ったのだろう。しかし実家に帰ればいいものを、なぜわざわざ何年も顔を合わせていない私のところになど来たのか、単純に疑問である。

「まあちょっと色々あったんだけどさ、実家にも離婚したこと言ってなくて」
「は?」
「元義実家から何か連絡行ってるかもだけど、私も実家からの連絡拒否してるんだよね」
「は…?」
「なのでちょっと、暫く泊めて欲しくて、暫く」
「は……!?」

 絶句というのは、ちょうど今の私のような状態を言うのだと思う。ちょっとボールペン貸して欲しくて、とでも言ったかのような軽さで頼まれてしまったことに、言葉を失わざるを得ない。

「もちろんただでとは言わないよ。詠実ちゃんがいない間、家のことなんでもするし。これでも主婦と会社員してたからね!」
「いやそれは、そういう問題じゃなくて……」

 私がわざわざ実家から遠いこんな都会に住んでいるのには訳がある。実家にまつわるあらゆることに関わりたくないからだ。無害有害拘らず、実家を含め身内と呼ばれる近い親戚に近付きたくない。そちらにはそちらの事情があるのだろうが、こちらにもこちらの事情がある。

「…………」
「ね、お願い!」
「…………」
「私たちが詠実ちゃんちにいるってことは誰にも言わない! お母さんもここには呼ばないから! もちろん、詠実ちゃんちのおじさんたちにも!」
「…………」

 まあでも確かに、果林ちゃんが私に何か害をなすことをしたかと言われれば、何もない。困っているのは本当なのだと思う。よく足を運ぶ病棟にもシングルマザーの看護師さんは多く、託児所がどうの、病児保育がどうのと、大変そうなところを見かけたのは一度や二度ではない。
 果林ちゃんが実家に離婚を話していないのも、実家に戻らずわざわざ遠い所に住む私を頼って来たのも、それなりの理由があのだろう。果林ちゃん自身も母子家庭で育っており、なかなか厳しい家庭だったことを覚えている。うちも人のことは言えないけれど。
 十の家族がいれば、十の事情がある。それぞれの家族の形があって、その事情の核心は外からは分からない。他人から見れば教育熱心な親に見えても、子にとっては脅迫でしかないということもある。あれがおかしかったということを当時気付けていたとして、未成年で被扶養者でいる以上、どうにもできなかっただろう。脱却するには、どうしたって経済的な自立が必要不可欠になる。そうして初めて、あなたたちの言いなりにはならないということを突きつけることができたのだ。

「詠実ちゃん?」
「あ、ううん、ごめん」
「あのね、夏まででいいの」
「夏?」
「うん、七月」

 何も無期限でここに滞在するつもりはなかったらしい。一瞬でもいろいろ疑ってしまった自分が恥ずかしい。

「三か月の間にいろいろ身の回り片付けるから。仕事もしないといけないしね」
「そっか……」
「自分でいうのもあれだけど、陽月お利口さんだからそんなに迷惑はかけないと思う」
「…………」
「ね、陽月」

 果林ちゃんが陽月ちゃんの頭を撫でてやると、恥ずかしそうに母親に抱き着いた。
 六歳にもなると、もうきっといろいろなことを理解している。両親が離婚したことを察して、何も言わずお利口にしているということもできるのだ。
 じっと陽月ちゃんを見ていると、ばちっと目が合う。けれどすぐにまた果林ちゃんに抱き着いて隠れてしまった。
 私だって鬼ではない。行く先もなく困っている従姉妹を前に出て行けなんてことは言えない。

「じゃあ、夏まで…」
「ありがとう、助かる!」

 ほっとしたように従姉妹は笑った。良かったね陽月、と優しく自分の娘に笑いかける横顔は、私が決して持ちえないものだ。自分の境遇を悲観したり、人を妬んだりすることはないけれど、もしかしたら、を考えると何もかもに靄がかかったような気持になることがある。たらればの話なんて不毛以外の何物でもないというのに。

「ごめん、ちょっと夕方まで寝るね」
「そっか、仕事終わりだったよね。夕飯作ろうか?」
「……できれば」
「任せて!」

 果たして、私と従姉妹と従姪という不思議な三人暮らしが期間限定で始まった。まだ肌寒い四月の終わりのことだった。