第二話
「えーみちゃん!」
「……今日休みなんですが」
「あさごはん!」
「わたしは休日は朝ご飯は食べません…」
「あさごはん食べない?」
休日の私は、スマートフォンのアラームを朝十時に鳴らし、ゆっくりと覚醒し、キッチンで一杯の紅茶を立ち飲むことから始まる。それが、アラームをセットした一時間早く起こされてしまった。
なんで子どもがここに、と数テンポ遅れて疑問が浮かんできたが、考えるのも面倒で再び布団を被る。起床を拒否したものの、今度は別の声が降って来た。
「朝ご飯冷めちゃうよ詠実ちゃん!」
「だから要らないってば…」
そういえば従姉妹親子が昨日からいるんだったか。今日はこの近所の案内をするとかしないとか言ったような気がする。が、私の中でこんなに朝早くから起こされるとは思っておらず、まだ頭がしっかり起きていない。もうちょっと、と呻いて再び布団に潜り込む。
結局ちゃんと起きたのは、それから一時間後の十時だ。きっちり、いつも通りの休日の起床時間である。歯磨きと洗顔を済ませてから、キッチンで紅茶を淹れた。
「朝それだけ?」
「これだけ」
「お腹空かない?」
「朝はあんまり…」
シンク下からスティックシュガーを取り出し、一本まるまる投入した。お気に入りのダージリンだ。そりゃ細いはずだ、と果林ちゃんが私を見て言うけれど、別に細いわけではない。浜野さんなんかは確かに細いとは思うけれど。
テレビからは、いつも見ないような子ども番組が流れている。私が子どもの頃もやっていたっけ、と紅茶に口をつけながらぼんやり眺めた。今朝私を起こしに来た六歳児、陽月ちゃんはテレビの前に鎮座して画面に釘付けだ。リビングに敷いた来客用の布団はとっくに上げられているらしい。
二部屋付きのマンションに住んでいるからと言って、来客にはいどうぞと貸せる部屋であるとは限らない。二部屋ついている部屋を選んだのには訳がある。両方とも絶賛私が使用中であり、今すぐ人に貸せるような状態ではないのだ。なので、申し訳ないが二人にはリビングに寝てもらった。
「二人とも寝られた?」
「ぐっすりだよ。陽月も長旅で疲れてたみたいで、夜はすぐ寝ちゃった」
「神戸から来たんだっけ」
「うん。東京は遠いねえ」
まさか神戸には毎年行っている、とは言えなかった。誤魔化すように紅茶を飲み干し、軽く洗って水切りラックに伏せる。
近辺を案内しがてら、昼は外で食べよう。昨日買って来た食材も私一人分しかなく、大人一人と子ども一人が追加になれば、どのみち買い物に再び出なければならないのだ。
「すぐ用意するから、そしたら出かけようか」
「分かった。陽月、テレビそろそろ終わりだよー」
「はーい」
陽月ちゃんは言われた通りテレビのリモコンの赤いボタンを押した。確かにお利口さんらしい。
この部屋の気に入っている所の一つに、独立洗面台がある。明るい照明はメイクがしやすい。この辺を案内する程度なので、今日のメイクはかなり軽めだ。あとはルージュだけ、とキャップを外したその時、がちゃりと音がして洗面所のドアが開いた。ドアから顔を半分覗かせているのは陽月ちゃんだ。
「ちょっと待ってね、もうすぐ行くから」
「えーみちゃん、なにしてるの」
「…お化粧」
「おけしょう?」
「果林ちゃんもしてるんじゃないかな…」
とことこと部屋に入って来ると、ルージュを引く私をすぐ傍でじっと見上げて来る。他意はないのだろうが、見られているとなんともやりにくさを感じる。
「えーみちゃん、おくちあかいろになった…」
「う、うん、そうだね」
「こら陽月、邪魔しちゃだめだよ」
「や、もう終わったから大丈夫…」
子どもって、どう対応すればいいのか分からない。苦手だとか嫌いだとかではなく、単純にどう接していいのかが分からなかった。上手く言葉にできないだけで、多分大人が思う以上に色んなことを考えているであろうたった六歳の子どもを、どう扱うべきか分かりかねている。
自分が六歳の頃って、一体どうだっただろうか。ぼんやりとおぼろげになってしまった幼少期の記憶を掘り返す。…あんまり覚えていない。幼稚園に通っていたことは覚えているし、当時の友達もなんとなく覚えている気はする。けれど、三十歳にもなると六歳の頃のことなんてろくに記憶にない。いろんな習い事をさせられて、遊ぶ暇もなかったような気はする。ただ、昔の記憶なんて脚色されるものなので自信はない。
「えーっと…じゃあ出ようか。近くの公園から案内するね」
「ありがたい! この子、外遊び好きだから」
顔が引き攣る。どうしよう、陽月ちゃんと距離を縮められる気がしない。私はかなりのインドアで、部屋で本を読んだり音楽を聴いたりする方が好きなのだ。二つある内の片方の部屋は、大きな本棚をいくつも設置しており、本とCDが詰まっている。今どき珍しいCDプレーヤーも置いており、音楽を聴きながら読書に集中するのが私のリフレッシュだった。
今日も、二人がいなければ一日部屋に引きこもって本でも読もうとしていた。私と真逆のタイプの浜野さんも意外とインドアな趣味が合うので、性格は違っても気が合うのである。けれど、たまには太陽光を浴びるのも悪くないかも知れない。昨日とは打って変わって快晴でもある。
二人を連れてまず向かったのは近所の公園だった。遊具も設置されており、小学校の終わる時間になると小学生も駆け回っているようなある程度広い公園である。この時間は、この近くの保育園の園児たちが先生に連れられて遊びに来ているらしい。砂場にまっしぐらの陽月ちゃんを砂場の近くで見守りつつ、気になっていたことをそれとなく聞くことにした。
「…陽月ちゃん、保育園は?」
「やめたよ。お友達もいたし、仕方ないけど」
「小学校は……」
「どうしようかな…実家は戻りたくないしさ。でも元の学区じゃ、元旦那も近くにいるから嫌だし」
「そっか」
「詠実ちゃんもでしょ?」
「…まあ、うん」
私の両親は、私が医者になることを強く望んでいた。医学部に入れるようにと、早くから塾にも通っていたし、中学も偏差値の高い私学を受けた。当時は何の疑いもなく学校にも塾にも通っていたし、テストでいい点数を取れば取るだけ褒められた。だから頑張っていたのだと思う。頑張っている理由も曖昧なまま、頑張るということがよく分からないまま。
「私も兄も、親の望んだ進路に進めなかったからね」
「私には考えられないけどね、県内有数の進学校ってだけで同じ血が流れてると思えなかったもん」
「あの人たちは一番の高校じゃなきゃ納得しなかったから、意味なんてなかったんだよ」
「そんなことないよ」
それまで明るい声音で喋っていた果林ちゃんが、急に声を低くする。
「詠実ちゃんの頑張りに、何一つ意味のないことなんてないんだから」
私の言った言葉を強く否定するように聞こえたその言葉は、彼女自身にも言い聞かせているようだった。
果林ちゃんは、昔から明るい女の子だった。引っ込み思案で人見知りな私とは違い、一年に一回会う程度の親戚の大人たちの前にも混じって行けるような子だった。世間のイメージする“しっかりした長女”を体現しているような子で、私とは真逆だったことをよく覚えている。子どもの頃は私のこともよく構ってくれて、親戚が集まる場で隅っこに一人でいると、手を引いて遊んでくれた果林ちゃんが大好きだった。
中学生の頃だろうか、勉強に追い立てられて果林ちゃんに声を掛けられてもずっとテキストを読むようになったのは。
「難しいよね、生きるのって」
「……うん」
彼女の言葉に重い何かを感じて私は小さく頷く。
陽月ちゃんを見つめる双眸は細められている。その横顔は、太陽が眩しいのか笑っているのかまでは分からない。ただ、ここに来るまで決して円滑に事が運んだわけではないことだけは、私でも察することができた。
明るい女の子が、明るく振る舞うのが得意にな女性になった。子どもが大人になるというのはそういうことなのだろうなと、私はぼんやりと思ったのだった。