第九話

 神戸から東京に帰った夜は、大変だった。帰宅してから寝るまでずっと、陽月ちゃんが離れてくれなかったのだ。お風呂も一緒、ごみ捨ても一緒、挙げ句の果てにはお手洗いにもついて来ようとする始末。キャリーの後片付けもなかなか進まなかった。たった三日だが、子どもにとっては随分と長い時間らしい。三人で寝ると言って聞かなかったが、それは勘弁してもらった。明日は夜勤なので、昼前まで寝ていたいのだ。旅の疲れもある、一人でゆっくり、三日ぶりに自分のベッドで寝たかったのだ。
 ほとんどぐずっている先に陽月ちゃんを寝かしつけて、果林ちゃんは私の部屋にやって来た。CDと本の詰まった部屋ではなく、ベッドルームの方だ。

「陽月が我儘言っちゃってごめんね」
「いや、別に気にしないけど…」
「実は、そろそろ詠実ちゃんの家出て行かないとねって陽月に話したんだよね」
「そうなの?」
「うん。そしたら“嫌だー!”って大泣きしちゃって…」
「こ、ここそんなに居心地いいかな…リビングで寝る羽目になってるのに…」

 2LDKのこの部屋は、一つは私の書斎、一つは私のベッドルームになってしまっているため、二人はいつもリビングで寝起きしている。決して寝心地がいいとは思わないのだが。
 立ち話もなんだから、と、クッションを出して座るよう促す。ありがとうと言って腰を下ろすと、はあ、と果林ちゃんはため息をついた。

「陽月、詠実ちゃんのことすっごく好きなんだと思う」
「子どもには好かれないタイプなんだけどなあ」
「詠実ちゃんって、怒らないでしょ」
「陽月ちゃんのこと?」
「ううん、普段からずっと、そう……イライラしないじゃない?」
「まあ、しない方、かな?」

 感情の起伏はあまり激しくない方だと思う。あまり苛々することもなければ、思いっきり悲しむことも、思いっきり喜ぶこともできなくなってしまったけれど。それはまさに、先日神戸で浜野さんを見ていて改めて自覚したことだった。涙を流すほど感動することができない、と。

「離婚直前は特に家の中が荒れてたからね。詠実ちゃんみたいにフラットな大人に安心するんだと思う」
「…私の場合は病的だよ、多分」

 言うはずなんてなかったのに、気付けばそんな言葉が口を突いて出ていた。

「病的?」
「もう分からないんだよね、そういうの」
「それって、湊人くんが亡くなってから? それとももうずっと?」
「実家を出てから、兄が生きていた時はまだましだったかも知れないけど…うん……」

 だから、誰を見ても眩しい。陽月ちゃんも、果林ちゃんも、浜野さんも。泣いて笑って喜んで怒って、感情を発散できる人たちがすぐそばにいて、私は私の欠陥を目の当たりにしてしまう。ただもう、それにすら悲嘆も焦燥もなくて、「ああそうか」とただ納得し、受け入れるだけ。音楽にも、写真にも、小説にも、これが好きだと思う気持ちはあっても、心が大きく動いた感触がしない。
 寂しい人間だと思う、つまらない人間だとも。未だになぜ浜野さんがこんな私と付き合ってくれるのか分からないし、陽月ちゃんが懐いてくれる理由も分からない。一緒に笑えなければ泣けもしない、共感できるものがなければ、一緒に至ってさぞつまらないだろうに。果林ちゃんにしたってそうだ、居候さえしていなければ、こうして喋ることもなかっただろう。
 私に掛ける言葉に迷っているような表情をして、何かを言おうとしては口を閉じる従姉妹。別に、何か言って欲しかったわけではない。慰めて欲しかったわけでも、励まして欲しかったわけでもない。けれどつい、魔が差した。言わなくてもいいことを言ってしまった。こんなことを言えば、相手が困ることくらい分かっていたはずなのに。

「あの、」
「湊人くんはさ」

 俯きながらも、沈黙を破ろうとした声が被る。けれど、どうぞどうぞ、なんてことは言わずに、私の言葉を遮って果林ちゃんは続けた。

「死んじゃ駄目だったよね」

 それは、思いもよらない言葉だった。そして、兄を悼む初めての言葉でもあった。兄が亡くなった時、悲しんでくれる人は誰もいなかった。両親でさえ、兄を自業自得だと罵った。それが決定打となり両親と絶縁状態に陥ったのだが、あの時、私の感情は死んだに等しい。
 次第に、鼻を啜る音が聞こえてきて顔を上げた。果林ちゃんが膝を抱えて涙を流している。どうしたらいいか分からず、とりあえず近くにあったティッシュ箱を差し出した。

「えっと……なんか、ごめん」
「詠実ちゃんが謝る必要なんてないよ、詠実ちゃんも湊人くんも悪くない、でも、でも」

 ティッシュを数枚取って、彼女は盛大に鼻をかむ。真っ赤な目をして、まだ止まらない涙を止めようともせず、感情をただ流す。

「でも、湊人くんは死んじゃ駄目だった」

 湊くんのためにも、詠実ちゃんのためにも、と、泣いているせいでほぼ聞き取りできない声で続けた。
 二人分の涙だと思った。兄が亡くなった時に泣けなかった私の分と、果林ちゃん自身の分。私の分も代わりに泣いてくれているのだと思うと、さすがにぎゅっと心臓が締め付けられるように感じる。
 例えば、高校を卒業した時、大学に合格した時、兄は自分のことのように泣いて喜んでくれた。生きていればきっと、薬剤師の資格試験に合格した時も、大学を卒業した時も、兄のことだから大泣きしてくれたに違いない。その兄がいなくなり、もう私自身のことでこんなにも泣いてくれる人なんていなかった。当然だ、それくらいの希薄な人間関係しか築いてこなかったから。高校も大学も、友人と呼べる人の顔は一人も浮かんでこない。それが、こうして付き合いを避けて来た身内が泣いてくれるなんて。この光景を見たら兄はなんて言うだろうか。もしも、ここに兄がいたなら。

(果林ちゃんと一緒に大泣きするかな……)

 まただ、また“もしも”を考えてしまう。兄が生きていたら、という“もしも”の話を、何年経っても考えることをやめられないでいる。ブラコンだった意識はないけれど、私にはたった一人の家族であり、理解者だった。誰よりも私のことを考えてくれ、大事にしてくれた兄だった。
 唯一、唯一だ。私が辛い、寂しい、悲しいと心の内で叫ぶことができるのは、皮肉にも兄の死だけなのだ。こんな感情の揺れなら要らなかったと、ずっとずっと誰に対するでもなく叫び続けている。怒りでもあり、憤りでもあり、行き場のない気持ちと共に全ての感情に蓋をして、そうしてなんとか生きている。感情の栓をきつく締めないと、何もかもがどうしようもできないくらいに溢れて来てしまうから。

「湊人くんが生きていたら、詠実ちゃんも泣いたり笑ったりできたのかな」
「……もしかするとね」
「湊人くんのばかぁ」
「うん、馬鹿だよね」

 込み上げて来そうになる何かを唾と一緒にぐっと飲み込んで、短く果林ちゃんに相槌を打つ。ここで泣いてしまえるほど、私は強くはできていない。泣くことを耐える程度の頑丈さしか持ち合わせていないのだ。一度栓を緩めてしまえば、兄の死についてだけでなく、あらゆることが我慢できなくなってしまう。両親とのことや、これまでの人生についてなんて、今更吠えたところで何も変わらない。それなのに、ため込んだ全てを一から百まで醜く吐き出したくなってしまう。
 だから、ぐっと堪える。代わりに果林ちゃんが泣いてくれているのだから大丈夫だと。私が泣かなくても、兄がいなくても、こうして泣いてくれる人がいるから、だから大丈夫だと自分に言い聞かせて。
 だけど思う。きっと、最初から泣けるだけの可愛げが備わっていれば、今こんな風に無感情には生きていなかっただろう。