第八話

 浜野さんにとっては人生初の神戸らしい。二日目の昼は、神戸や三宮のエリアを二人で散策した。浜野さんが行きたいと言っていたカフェに行ったり、昨日回り切れなかったチョコレートのお店に並んだり。そうして、あっという間に日は暮れ、コンサートの開場時間が遣って来た。私にとっては何度目かの神戸のコンサートホールだが、当然ここにも足を運ぶのが初めての彼女は、ホールに至るまでもあちこちの写真をスマートフォンで撮影していた。
 ホールの入り口には瀬名はすみと城春輝の大きなポスターが貼り出されており、浜野さんはそこでも記念撮影をしていた。通りかかった同年代くらいの女性がシャッターを押してくれるというので、二人での写真も撮ることになった。普段自分の映った写真なんて撮らない私は一旦遠慮はしたのだが、浜野さんの強い要望により、ポスターを両側から挟むという構図で一枚だけ撮影した。
 瀬名はすみ・城春輝の今年のコンサートツアーも、ここ、神戸から始まる。会場はここ何年か続けて神戸夕陽ホール、しかも大ホールだ。二人のファンになって以来、ずっと神戸公演のチケットも取っているが、やはり初日というのは気持ちの舞い上がり方が違う。演目は発表されているものの、今回の演奏がどうだったか、などの感想やネタバレは一切踏まずにコンサートに臨める。

「入り口は三つございます、空いてる場所から分かれてご入場ください」
「本日のプラグラムはこちらです」
「CD、DVDの販売はこちらです、本日お買い上げいただいた方は終演後のサイン会にご参加いただけます」

 ホールのエントランスでチケットをもぎってもらうと、すぐに聞き慣れたコンサート前の開場スタッフの誘導文句が飛び込んで来る。入口すぐのホワイエで天井を見上げると煌びやかなシャンデリアが出迎えてくれ、正面の階段は赤絨毯が敷かれている。階段の手前ではCDやDVDが販売されており、私たちは何も言わず吸い込まれるようにその物販列に並んだ。

「…藤倉さん、持ってない音源あるんですか?」
「全部持ってる」
「なのに買うんですか?」
「そういう浜野さんこそ」
「こういうのは記念なので」

 二人のCDは全て揃えている。ファンになった当初、既に何枚かCDが出ていたが、もちろんそれも購入した。最新のCDをメインに今回のコンサートツアーの演目は組まれていると思うので、それだって発売日当日に購入している。それでも、サイン会に参加できるとなれば買ってしまうものだ。お陰で、うちには同じCDが二枚ずつ存在しているものがある。サイン入りのものは保存用となってしまい、本来のCDの意味を成してはいないが。
 終演後にサイン会があるということで、開場から時間が時間が経過すると共に物販列は伸びて行く。女性用のお手洗いといい勝負になって来た。こういうことがあるから、開場と同時に入場するのが正解なのだ。きっとぎりぎり入場では物販もお手洗いも怪しい。

「藤倉さん、何のCD買います?」
「一番新しいのかな。最新が売れないと次が作れないみたいだから」
「なるほど、私もそうします」

 二人で話している内に、そこそこ並んでいた物販列もあっという間に順番がきた。クラシック系のコンサートでこんなに並ぶ物販もあまりないように思う。サイン会参加権利付きというのはやはり大きい。
 無事に目当てのCDを購入し、座席に向かう。そうして落ち着いてから、ようやく私たちはプログラムを開いた。A5サイズのプログラムには、いつもコンサートの演目、二人の挨拶、写真、今後の予定や発売されているCDのお知らせなどが掲載されている。その写真というのが、ポスターでも宣材写真でもなく、わざわざプログラムのために毎回撮影されたものなのだ。
 今回は、結構お堅い演目である。最新のCDというのが、既存のクラシック作品を中心としたものだったのだ。瀬名はすみ・城春輝というピアノとヴァイオリンのデュオの音楽は、城春輝が編曲した作品が多い。クラシック音楽やジャズ、城春輝の作曲したものもあるが、昔の作曲家が作ったヴァイオリンソナタなどは滅多に録音されてこなかった。そこがクラシック音楽へのハードルを下げて来ていたのだが、このタイミングでしっかり二人が学んできたジャンルに戻るというのは、“上手い”と思う。

「今回の曲目…最高ですよね……」

 プログラムを読みながら浜野さんがため息をつく。彼女は子どもの頃、少しだけヴァイオリンを習っていたそうで、ヴァイオリン曲には明るい。

「ヴァイオリンソナタ二曲にピアノとヴァイオリンのための小品…待ちに待った王道ど真ん中ですよ」
「そうだね」
「でもそのソナタのチョイスがしっぶ! 普通にベートーヴェンとかブラームスじゃないんですね」

 パデレフスキとシマノフスキのヴァイオリン・ソナタ、ヴィエニャフスキのポロネーズと、今回はポーランドプログラムらしい。ほか、と書いてある部分は、これまでの傾向から恐らく過去にも演奏された城春輝編曲の曲をするのではないだろうか。とにかく、この三曲が今回の目玉らしい。非常に“濃い”プログラムと言える。演奏家はそのプログラムにしっかりと意図や意味を持たせるというが、いきなりの方向転換ともいえるこの曲目に、正直なところ、賛否両論出ることだろう。
 やがて開演のブザーが鳴る。ゆっくりと客席の照明が落ちて行き、話し声で盛り上がっていた客席が一気に静かになる。期待と緊張が高まっていく。舞台の下手のドアが開き、それと同時に拍手が起きた。瀬名はすみと、ヴァイオリンを手にした城春輝が出て来た。続いて譜めくりの担当者もピアニストの向こうに用意された椅子に座る。
瀬名はすみと城春輝は舞台の真ん中に立つと、まず深々とお辞儀をする。一層客席の拍手は大きくなり、顔を上げた二人はそれぞれ定位置についた。再びしんと静まり返るホール。客席の照明も完全に落ち、舞台上だけが異世界のように照らされている。
 二人が目を合わせた直後、疾走感のある複雑なピアノのアルペジオが始まる。その瞬間、客席が息を呑むのが分かった。そこへ語るような城春輝のヴァイオリンが入り、曲のテンションは徐々に上がって行く。ヴァイオリン・ソナタは当然、ヴァイオリンが主役のものではあるが、人気ピアニストでもあったパデレフスキの作った曲なだけあって、ピアノが容赦ない。デビュー当初は控えめだった瀬名はすみのピアノが、これでもかというほど自信たっぷりに響いている。唸るようなピアノと低音のヴァイオリンで第一楽章を締め、ゆったりとした第二楽章へ。そして終楽章の第三楽章。再び情熱的に始まり、ピアニストが作ったヴァイオリン・ソナタらしく、随所にピアノの見せ場もあり、ヴァイオリンと共に大いに盛り上がる。疾走感そのままにヴァイオリンとピアノが駆け抜け、劇的な終わりで締め括る。残響の余韻に浸った後、客席からは聞いたことのない割れるような拍手が起こった。また一曲目だというのに、命を削るかのような十五分に、客席の興奮はなかなか冷めなかった。

***

「生きててよかった……」

 コンサートが終わり、座席から立ち上がれないまま、浜野さんはため息とともにそう呟いた。隣を見ると、涙で顔がぐしゃぐしゃになっており、思わずぎょっとしてしまう。

「えと、ティッシュ…使う?」
「はぁい……」

 感受性豊かな子だとは思っていたが、まさか隣でこんなに号泣しているとは思わなかった。

「あの、私ぃ…実はデビューした時からのファンでぇ……」
「あー…なるほど…」

 その一言で全てを察した。
 城春輝が上手いことは誰もが知っている。ソロでも十分にやって行ける実力を持っており、むしろデュオのみで活動していることを勿体ないと評するライターやファンもいるくらいだ。経歴は実に輝かしく、海外で学んだ経験もあるという。
 だから、瀬名はすみはなかなか認められなかった時期がある。本人も自信がなかったと言っていたが、厳しい声は特に彼女に飛んだらしい。その瀬名はすみが、あんなにも堂々とヴァイオリン・ソナタのピアノを弾いていたのだ。感激もひとしおといったところだろう。

「泣き止まないとサイン会で不審者だって思われちゃうよ」
「それは嫌です、うっ……」

 渡したティッシュで盛大に鼻をかむと、「すみません! 行きましょう!」とまるで戦にでも行くかのような覚悟で立ち上がる。ホールの客席はもうまばらにしか観客は残っていなかった。しかし、ホワイエに出るとサイン会待ちの長蛇の列が作られている。幸い、この後決まった予定もないためいくらでも待てるが、あれだけの充実したプログラムをこなした後で、これだけのサイン列を捌こうとする瀬名はすみと城春輝、恐るべしである。
 ゆっくりと進む列に並びながら、開演前に何度も読んだプログラムを再度開いた。
 あまり芸事に従事する人間が辛い出来事をおおっぴらに語ることは少ないが、瀬名はすみが複雑な家庭環境で育ったことはファンにとっては周知の事実。城春輝と違って大きなコンクールで収めた成績もなく、音大卒業後はクラシックから遠のいていたらしい。それでもピアノを辞めず、こうして舞台の上に立ってくれた。逆風に立ち向かう強さを持っている瀬名はすみがかっこよくて、私はファンになったのだ。

「あああ、瀬名はすみと城春輝がもうこんな近くに…」
「浜野さん、落ち着いて落ち着いて」

 ホワイエいっぱいに折り返していたサイン会の待ち列も、浜野さんと話している内にあっという間に短くなっていく。もうあと数メートルまで来たところで、浜野さんの顔色がどんどん白くなっていく。本当に感受性豊かだ。なんて声かけるか考えなよ、というと、更に震え始める。一言二言くらいなら二人に声を掛けることができるのだ。私は緊張して「お願いします」「ありがとうございます」くらいしかいつも言えないが、初めての神戸遠征でここまで情熱的なファンなら、今日の感想を少しでも伝えたらいいのではないか。

「あわわわ、二人が、もうあと数人でサイン、藤倉さん私もうだめです」
「初めてのサイン会じゃあるまいし…」
「次の方、CDをお預かりします」
「藤倉さん先に行って下さい」
「はいはい」

 サインを入れて欲しいCDのブックレットのページを開いて、スタッフに渡す。スタッフが城春輝にブックレットを渡して、「どうぞ」とスタッフの人に呼ばれた。慣れた様子でさらさらっとサインを入れ、そのまま隣の瀬名はすみにスライドする。

「ありがとうございます」
「ありがとうございました」

 二人の方から声を掛けられ、「…ありがとうございました」とだけようやく伝えた。
 いつもは私もサイン会は非常に緊張するのだが、あの真っ白な顔をした浜野さんを見ていたら緊張が吹き飛んでしまった。寧ろ心配になってしまい、私の方が感想を伝えるどころではなかった。ブックレットが返され、数歩進んでちらりと後ろを振り返ると、かちこちになっている浜野さんが見えた。

「あっあの! 神戸に聴きに来るの、初めてで! あの先輩と一緒に来たんです!」

 浜野さんは私を指差す。何をしてくれているんだ、あの後輩は。城春輝はさすが、「ありがとうございます」とにっこり笑っているが、私だったら困惑しているところだ。せっかくだから撮っておいてやろう、と、三人が丁度画角に収まる位置からスマートフォンを構える。数枚シャッターを押していると、サインを書き終えブックレットを浜野さんに返しながら瀬名はすみが言った。

「昔から東京に来てくれていますよね」

 さすがの私もスマートフォンを落とすかと思った。浜野さんはブックレットを受け取りながら数歩後ろによろめき、「あっ、えっあっ、はい、あ、はい」と言ってお辞儀をすると私を通り越してホールの出口に一目散に駆け抜けて行った。二人を振り返るとぽかんとしており、サイン会が止まってしまっている。終盤とはいえ、他のお客さんを待たせては悪い。私も頭を下げて急いで浜野さんを追いかけた。

「浜野さん!」
「…………」
「浜野さん、二人とも驚いてたよ」
「わ、私の方が驚きですよ!」

 まさか認識されていたなんて、と言いながらCDを抱き締めてその場にしゃがみ込む。

「よかったね」
「恥ずかしくて死にそうです」
「写真撮ってあげたからあとで送るね」
「プリントして家宝にします」
「来て良かったね、神戸」

 笑いかけると、また浜野さんは泣き出してしまった。苦笑いして背中をぽんぽんと叩いてやる。そばを通って行くコンサート帰りの人たちは、不審そうに私たちを見ていた。
 私は、やっぱり浜野さんが羨ましい。嬉しいこと、感激したことをこんなにも表出できることが。
最後に自分がこんなに泣いたり笑ったりしたのはいつだっただろうか。もう、思い出せないくらい昔だ。そもそも、そんなに感情を揺らしたことがあるだろうか。兄が亡くなった時でさえ、声を出して大泣きするなんてことはできなかった。
 この音楽は美しいとか、素晴らしいとか、あの小説は感動的だとか、そういう風に感じる気持ちはあるはずなのに、何か、大切なものがごっそりと抜け落ちてしまっている気さえする。浜野さんを前にすると、特に。幼い頃から大声で笑ったり泣いたりすると叱られてきていると、もう、大人になってからその仕方を覚えようとしても無理があるらしい。
 それを悲しんだり恨んだりすることもできないのに、ただただ、羨ましいと思ってしまった。この後輩が、羨ましくて羨ましくて、そして可愛い。

「さあ、美味しい夕飯食べに行こ」

 先に立ち上がり、促すように腕を引っ張り上げる。またぐしゃぐしゃの顔になってしまった後輩に、もう一度ポケットティッシュを渡した。
 瀬名はすみと城春輝のサイン会は、無事に終わったようだった。