いつかの話
ミリの拾った人間の子どもは、いつしか齢五つを数えていた。ミルクを飲むか寝るかしかしていなかった赤子が、今や二本足で駆け回っている。頬杖をついて、ミリはその様をしばしば眺める。子ども―――イヴの世界は、ほとんど城と城の庭でできている。時折街にでることもあるが、その二つのみが現在イヴが一人で自由に動き回れる世界だ。イヴの常識はこの城の常識であり、この城の常識がイヴの常識だ。だが、文字を覚えて以降、その常識が揺らいで来ているらしい。
珍しく届いた手紙に目を通していた昼下がり、一冊の絵本を抱えたイヴがミリの自室を覗いた。
「ミリ、ご本を読んで」
「なぜ」
「これ」
「いつも一人で読んでいるではないか」
「読んで」
絵本の読み聞かせと言うものが、ミリは嫌いだ。読書が嫌いなわけではなく、興味のない本を読んでやる意味がいつまでもミリには理解できない。絵本自体もミリが買い与えたものではなく、ヨーコや世界各国を放浪している友人などがイヴに贈ったものばかりだった。プレゼントしてすぐに彼女らが読み聞かせをするものだから、変な癖でもついてしまったのだろう。
先日、ヨーコの持って来た彼女の祖国の書物ですら、嬉々として聞いていたのだ。その中身など理解できていないだろうに、まるで呪文のような読み聞かせを飽きることなくヨーコの膝の上で楽しんでいた。
「これがいい!」
「…誰だこんな悪趣味な本を置いて行ったのは」
それは悪い魔女が村を丸ごと焼いてしまい、最後は処刑されるという内容だった。大方、誰が置いて行ったか察しはつくが、いくらミリでもこれが五歳児に読み聞かせるようなものではないことくらい分かる。
後で処分だ。そう心に決めて、イヴに別のものを持って来るように言いつける。すると、素直に自分の部屋に戻って行き、新たな絵本を抱えて来た。その冊数がなぜか増えているが。
イヴはミリの膝の上によじ登り、さあいつでも読んでくれと言わんばかりに、満足げな顔をミリに見せる。
「…妖精の国のお話」
「ようせいさん! ほんとにいるのね!」
「話を聞かんか」
いないことはない、と心当たりのある妖精を思い浮かべる。ただその姿は、この絵本に描かれているような手のひらサイズではない。人間の考えるファンタジーは可愛らしいものだ、とつい鼻で笑ってしまう。
絵本を読み進めると、やがてイヴも口を挟まなくなり、ミリの音読する声を集中して聞いている。さすが子ども向けの内容といったところか、イヴも理解できるようで、話の展開に顔を明るくしたり青ざめたりしている。絵本の内容よりもそんなイヴの様子の方が余程愉快だとミリは思った。
「…妖精は帰って行きました、おしまい」
終わったぞ、と声をかけるが反応がない。眠ってしまったかと思い顔を覗き込んだが、そうではないらしい。何やら小難しい顔をしている。どうした、と訊ねるも返事はなく、もじもじするばかりだ。痺れを切らしてイヴを小突く。
「黙っていては分からん、何か言わんか」
「ミリは」
「私が何だ」
「ミリは、イヴとちがうの?」
「は?」
突拍子もない、そして要領を得ない質問に、思わずミリの声も裏返る。「お主があまり話してやらんから語彙が増えんのじゃ」などとヨーコには言われたが、こうして肝心なことを訊きたくても言葉が出て来ない様子を見ると、ミリはやや反省した。子どもというのは、本を与えただけでは言葉を得るものではないらしい。この件に関してはヨーコが正しかったようだ。
特にこの後の予定が何もないミリは、ゆっくりとイヴの次の言葉を待った。
「ヨーコが、ミリはイヴともヨーコともちがうって。でもヨーコもイヴともちがって、イヴだけちがうって…」
「…………」
「妖精さんにもおかあさまがいた、でも、イヴにはおかあさまがいないって」
この子どもの欲している言葉が、さすがにミリにも分かった。けれど、ミリはどんな時もイヴに対して嘘だけは決してついて来なかったし、これからもそのつもりだ。ヨーコや他の友人からイヴとの接し方に文句を言われようと、それだけはイヴと生活する上で絶対に譲れないたった一つのことだった。
この子の欲しがる嘘をつくのは、ミリにとっては簡単だ。頼めば友人たちも口裏を合わせてくれる。けれど、その嘘がいつまで続くかは分からない。だからミリは最初から、「自分がお母様だ」なんて分かり切った、馬鹿みたいな嘘をつくつもりはなかった。それが、ミリにとってイヴを拾った責任であり、イヴに対する誠実さの証明なのである。
「…今のおまえにはまだ難しい。おまえを納得させられるような言葉を私は持っていない」
「イヴは人間だけど、ミリは違うって、ミリは魔女なんだって」
「そうだ」
「いつかさよならなの? イヴ、ここ出ていかないといけない?」
いつか別れる日が来るのは、人間だろうと魔女だろうと変わらない。イヴがこの古城の前に捨てられず、人間の世界で育っていたとしてもだ。生まれ始めた自我が、恐らくこの小さな体には不釣り合いな不安を背負わせているだけに過ぎない。子どもの成長の過程の一つだ。一過性の不安だし、今こんなことを言っていても、イヴがいつまでもここで生きて行くとミリも思ってはいない。人間はいつか人間の元へ、それが正しい世界だとミリは思っている。人間と魔女の世界が交わることにより起きた悲劇を、ミリは誰よりもよく知っているから。けれど。
「好きにすれば良い」
「すきに?」
「出て行きたくなったら出て行けば良い、ずっとここにいたいならここにいれば良い。だがイヴ、その選択をするのは今ではない。おまえがもっと大きくなってからだ」
けれど、イヴがもしそれでもここで最期まで、と望んだのならば、きっとミリはそれを突っ撥ねることはできない。きっとまた今と同じように、好きにすれば良いとしか言えないのだろう。
イヴは分かりやすくほっとした顔をすると、体ごとミリの方を向いてぎゅっとしがみついて来る。こうしてミリがイヴを軽々と抱えあげられる時間も、瞬きの間に終わりを迎えるのだろうと、柄にもなく感傷的な気分になった。