だからと言って、今更母が私に目を向けて「プロになりなさい」と言うほど現実が見えていない訳ではないだろうが。
私はもう、母にも妹にもさほど興味がなかったので、ただ傍観している。祖父がやはり心配をして私に電話をかけては来るが、進展はないよ、としか言えないのだった。
「まあ、星名さんが消えたなら闘う相手は芳井くんだけになるな」
「春輝くんって意外といい性格してるよね」
「この世界、善良な人間は生き残れないぞ」
「暗に私のこともいい性格だって言ったわね」
これまで空いていた時間も、私は春輝くんとの音楽ユニットの練習やステージにあてるようになっていた。お陰で丸一日休みというのがなかなかできないのだが、案外苦痛ではない。やることが次から次へと出て来て時間が足りないくらいだ。最初に宣言された通り、彼は私にピアニストとしてかなりのものを求めて来る。実際、彼自身も決してレベルの低い奏者ではないため、大学卒業以来真剣に音楽と向き合って来なかった私は、しがみついて行くだけで必死だ。
音大生向けのスタジオに入ったのも久し振りだった。サポートを頼まれる時はいつも、品行方正な音大生が近寄らないような、所謂バンドマンたちの集う音楽スタジオである。足を踏み入れた時に流れているBGMが違えば、店の構えも違う。ピアノ弾きのお嬢様たちは、もしかするとくらりとしてしまうかも知れない。
「やりたい人間はやるし、やりたくない人間はやらない。それだけだ」
「まあ、そうね」
「はすみさんはやることを選んだ人間だよ」
「悪魔の契約に乗った気分だわ」
「まあ僕は天使という柄ではないね」
彼のこういうさっぱりとした性格は、私と相性が良いのかも知れない。星名まどかの姉だと言った時も、さほど驚いた様子はなかった。「ああ、そうなんだ」という彼の一言は、あまりに呆気なさを感じるものだったのだ。
その態度を見て、自分が妹を意外とコンプレックスに思っていたのだと思い知る。どうでもいいと思いつつ、彼女の存在はプレッシャーだったし、意識せざるを得ない存在だった。あまりに近い、もう一人の私だったのである。
私がもし、妹より先にコンクールで優勝していたら、今の私の立場はまるごと妹と同じものだったかも知れない。否応なしに優勝の二文字を追わされていただろう。ピアノありきの人生で、母親の期待に応えることが正義だと思い込んだままだっただろうと思う。
それでも、妹だって何もかも嫌々やっていた訳ではなさそうだから、反抗期が遅かったのだろうな、とは推測している。私に表立った反抗期なんてなかったのだから、今こうして娘にバイオリンを投げ出されて動揺する母の気持ちも分からんでもない。同情できるかと言われれば、ノーとは答えるが。
「というわけで、次の仕事を説明したい」
「最近スパン短いわね」
「再来月、清水藤也の前座を獲った」
「はあ…………はァ!?」
「いいね、予想通りのリアクションで嬉しいよ」
清水藤也―――現在日本のトップに君臨するピアニストだ。フランクな人柄とトークの上手さから、時折お茶の間で見かけることもあるほど、老若男女問わず人気と好感度の高い人物。国内外にファンを多く抱え、クラシックファンでなくてもその名前の認知度は高い。そしてその実力は折り紙付きどころではなく、学生時代からコンクールに出ればあらゆる賞を総なめにして来た。とある海外のコンクールではショパンの再来と称されたほどである。私は、“瀬名はすみ”は、そんなピアニストの音楽を聴きに来るファンの前で弾いて良いようなピアニストではない。
まず、一体どのコネを使ってそんなとんでもない仕事をとって来たのか気になって仕方がない。私は頭を抱えてアップライトピアノの蓋に伏せった。
「そりゃもう、僕の地道な営業とコンスタンスな動画配信のお陰でしょう」
「ああ、そっかあ……」
「…僕の師匠のお気に入りが清水さんなんだよ。頼み込んで口添えしてもらった」
「それで頷く清水さんってどうなの」
おどけて冗談を言う春輝くんをかわそうとしたが、気に入らなかったらしくぶすくれた。初対面の時から感じてはいたが、彼は結構冗談が好きだ。彼の経歴や一族だけを見ていれば、もっとお堅い人なのかと先入観を抱いてしまう。コンクールの演奏くらいしか聞いたことのなかった頃は、私もそう思っていた。しかし、ただソロのバイオリニストとしてではなく、私を勧誘してジャンルに囚われない音楽ユニットを組みたいというのは、彼の柔軟性の表れだ。
「清水さんは音楽に対しては至極真面目で王道なピアニストだけど、面白いことも大好きな人なんだよ」
「そうでなければゴールデンタイムのバラエティに出たりしないわね」
「そう。そんな清水さんだから、僕は野望の全てを話した」
すると、一呼吸おいて彼は私に向き直る。手に持っているのは、今日のスコアだろう。それを私に差し出す彼の眼は、決して笑ってはいない。
「悔しいことに、清水さんが興味を持ったのは僕のバイオリンじゃない。はすみさんのピアノだ」
受け取りながら、私は戸惑った。この業界の偉い人たちから見れば、私などは春輝くんの組むことすら、彼の無駄遣いだと言われるのだろう。芳井祐介と星名まどかが若手バイオリニストのトップを争っているとは言え、いつ三つ巴の闘いとなってもおかしくない技術やセンスを、彼もまた持っている。
受け取ったスコアには、びっしりと黒い音符が敷き詰められている。彼は、城春輝という人物は、ピアノだってその辺のアマチュアピアニストよりよほど弾けるのだ。編曲の才も星名まどかに負けず劣らず―――いや、彼の方が勝っているくらいだと私は思う。
ただ、それだけのものを有していても、世の中はちょっとしたタイミングや縁で思い通りにならないことが多い。チャンスをものにする力や、チャンスを引き寄せる力は、一朝一夕では身につかない。春輝くんは、実力もありながらその都度チャンスに恵まれて来なかったのだと言う。ほんの少しの差で、芳井祐介と星名まどかに一位二位の座を悉く奪われていた。
そのもどかしさに藻掻いていた頃に見付けた突破口が私だったのだと、いつだったか言われたことがある。私こそが最後のチャンスだと。これだけのバイオリニストからそのような賛辞を贈られることは、私の人生において今後二度とないのかも知れない。
「はすみさんに興味を持っていたよ」
「こんな無個性ピアニストに?」
「自虐だなあ。はすみさんは自分が思っているより無個性じゃないと思うけど。そうでなければ僕は自分の音楽にはすみさんを誘わない」
「…無個性な所が気に入ったんじゃないの?」
「まさか。まあ、目立ちたがりじゃない所は気に入っているけど、それだけじゃない」
私は未だに、彼と音楽をやることに対して、自分は不釣り合いだと感じている。そんな私を追い詰めるかのように、春輝くんは言葉を続ける。
「はすみさんが何でもできるピアニストだから声をかけたんだよ」
***
清水藤矢の前座が決まって以来、練習は毎日ハードだった。家に帰ってからも練習、練習、練習と、もしかすると学生時代以上にピアノに触れている時間が長いのではないかと思うほどに。学生の頃は、思えば責任と言うのは負わなくて済んだ。母の目が私を見ていないこともあったが、誰も私と言うピアニストに投資はしないし、誰の顔に泥を塗ることもない。いや、師事した先生に対してはあるが。
今回は、何かあった時に私一人の責任ではないのだ。胃が痛いような、頭が痛いような気がしたが、それでもどこか、学生時代よりも練習に前向きな気持ちではいる。ああ嫌だ、という思いにはならなかった。
少し休憩しようと、自宅の防音室から出る。肩を回すとポキっと関節から音がした。すると、廊下には母が立っていた。その手に持っているチラシには見覚えがある。まずい、と勘付いた私は、素通りしてリビングに向かおうとする。しかし当然そうはさせてくれない。あすか、と呼び止められてしまった。
「あすか、あなた清水藤也と共演するんですって」
「…そんな大層なものじゃないよ」
「もしかして、もう一度クラシックに戻る気があるの?」
嫌な予感と言うのは、当たるものだ。ないだろうと思っていたことだって、時に起こり得ることがある。母の目は、まだ“娘をプロの音楽家にすること”を諦めていない。私の中に、その可能性を見出そうとしている。自分の望み通りに、自分の夢を叶えるために。
酷いものだと思った。随分昔、母が「そんなに嫌ならやめなさい、お姉ちゃんがプロになるだけなんだから」と妹に叱っていたことがある。私は練習部屋を通りすがっただけで、何とも思わない言葉だった。だが、幼い妹にとってはその瞬間に姉は自分の地位を脅かす存在になっただろう。あの頃だって、母にそんなつもりはないだろうと思っていた。けれど今、あの時の言葉が現実になろうとしている。あれは、妹を奮起させる言葉なんかではなかった。本当にただ、自分の思い通りにするための言葉だったのだ。まどかが駄目ならあすかがいる、あすかが駄目ならまどかがいる、と。
吐き気がする。今口を開けば、言ったこともないような汚い言葉が溢れて止まらないような気がする。
結局私は、「そんなはずない」の一言も言えずに、黙って家を飛び出した。私の名前を呼ぶ悲鳴のような母親の声は、酷く耳障りだった。