今日はどうしても家に帰りたくない。スマートフォンだけを握って家を飛び出した癖に、そんな途方もないことを考えていた。しかし、この端末は交通系ICカードのオートチャージを設定している。これがあればきっと、日本中どこへでも行こうと思えば行けてしまう。けれど、そんな度胸も覚悟も勇気も出ない私は、結局適当に歩いて目についたコンビニへ入った。ホットのカフェラテを手にレジへ向かい、スマートフォンで代金を支払う。夜も十時を回るというのに鞄の一つも持っていない私を、店員が疑う様子は微塵もない。そのまま短い買い物を済ませ、軒下で端末に届いた通知を確認しながらカフェラテに口をつける。
その通知の中に、母親からの連絡はない。恐らくこれがまどかであれば、しつこいほどに連絡が入っていたのだろう。遅い時間の仕事を入れることもある私に対しては、外を歩き慣れているからという理由であまり気に掛けられないのだと思う。それにすら、寂しいという気持ちは最早ない。妹を見ていると窮屈そうだと思ったし、いかにも音大生らしい生活をし、俗世を知らずに大人になるというのはあまりにも頼りなく思えた。…そう思うことで、ないものねだりを掻き消そうとしていたのだろうか。
その時、珍しく春輝くんからの着信が入った。メールでのやりとりが主な彼から電話が入るのは珍しい。
「もしもし」
「はすみさん、今何してる?」
「家出」
「じゃあ丁度良かった、師匠の家のマップ送るから来てよ」
会話が噛み合っているようで噛み合っていない。何が丁度良いものか。心配して欲しかった訳ではないが、ここで一旦事情を聞こうとする配慮はないものなのか。彼もなかなか浮世離れしているというか、一般の常識では通用しない部分がある。あまりデリケートに扱われることも好まないため構いはしないが、長らく彼に固定の相方ができなかった理由はこういう所が原因ではないかと、ここ最近気付いたのだ。
すぐに電話は終了し、言われた通りに彼のバイオリンの師匠の自宅への地図が送られて来る。幸い、さほど遠くはない。ここから家に戻って荷物を取りに行くのも面倒だ。ここには文明の利器もある。どうせ非常識の集まりだろうと、私は手ぶらで彼の師匠宅へ向かった。
音楽をやっていると、基本的にはいつも荷物は多い。楽器を持ち歩かないピアノ弾きの私ですら。だからか、この薄っぺらい端末ひとつで電車に乗り街に出るというのは、どこか心細い気がした。心細い内は、きっと私はどこへも行けない。妹は、結局やろうと思えばそれができてしまったのだ。単身家を飛び出し、今はどこか知らぬ主治医と恋仲になり、厄介になっているらしい。幼い頃から“バイオリンしかない”と言われ続けた彼女には、実際バイオリン以外も備わっていたというわけだ。天は、天才にいくつもの才を与えた。その中にはもしかすると、私が与えられるはずだったものもあったのかも知れない。何かしらの采配の間違いにより、私には与えられたものがなかった。だからと言って、得ようとすることもしなかった。
そんな私が、今初めて努力をしかけている所だった。城春輝というバイオリニストに出会い、もう一度真剣にピアノと向き合おうとしていた所だった。母親も妹も関係ないところで、私がピアノを選んで弾こうとしていた所だったのだ。
ほんの一時間前の出来事が、思考をどんどん負に陥れる。きっと酷い顔をしているだろうに、春輝くんの師匠の元へ向かうのはなんだか気が重い。そんな気持ちに反して最寄駅に到着してしまった。改札を出ると、そこには春輝くんが迎えに来てくれていた。今の時代、スマートフォンがあれば迎えなんてなくても辿り着けるというのに。
「家出の真相が聞きたくて」
「気になってたの?」
「心外だな、気にしないような薄情に見えた?」
「さっきのやり取りだとどう考えてもね」
「はすみさんの妹みたくどこかに転がり込まれたら、僕はもう手出しができないから」
「大丈夫よ、決まった仕事を投げ出したりはしないから」
彼の顔には、“清水藤也の前座”と大きく書いてあった。こういう分かりやすい所も、彼の気に入っている点の一つではある。
私たちは歩きながら、話の続きを始めた。
「で、何があったの?」
「…清水さんの前座で演奏すること、母親がどこからか嗅ぎつけた」
「はすみさんがクラシックに舞い戻ったって勘違いでもした?」
「およそ、そんなとこ」
駅から離れるに連れ、人はまばらになる。やがて高級住宅街へ突入したが、さすが街灯も多く、顔を上げてもまるで星は見えない。迷うことなく歩く春輝くんに遅れないよう足を動かしながら、慎重に言葉を選ぶ。私は、彼と良好な音楽活動のパートナーをするには、あまり家庭の後ろ暗いことは言いたくなかったのである。母親や妹との関係がスムーズでないことはぼんやりと伝えていたけれど、具体的には何も話していない。言及されないことにほっとしていたのだ。
「都合良すぎじゃないって思って、なんだか腹が立って、今ここ」
「スマートフォンしか持ってないって、はすみさんやるなあ。ロックだよ」
「もっと褒めて」
「褒めに捉えたポジティブさもいいね」
額面どおり捉えて褒め言葉だと思っていたのだが。彼はこういう所がある、さらりと笑顔で毒づく所が。今のが毒や嫌味に聞こえたつもりはないのだが、私の受け取り方に問題があったのだろうか。あまり深く考えても答えは出なさそうだ。彼もそこまで重要なやり取りとは考えていないのだろう、ただの言葉遊びだと切り替えて、言及することはしなかった。とりあえず、今の彼には私が時間を持て余しているということが重要なのだ。彼がここに私を呼び出したからには、きっと私たちの音楽活動について何かあるのだ。なんの察しもつかないけれど。そうでなければ、彼の師であるバイオリニストが出て来るはずがない。
この高級住宅街の一角、門構えからしていかにもな洋風の一軒家に辿り着くと、慣れた様子で春輝くんはインターホンを押した。どの邸宅もお金持ちです、と主張しているかのような敷地のお宅ばかりが並んでおり、ここに来てようやく私に緊張が訪れる。がちゃりと自動で解錠され、春輝くんに続いてその邸宅の中へ足を踏み入れる。外からもぼんやり見えていたけれど、庭もきちんと手入れがなされている。今初めて、手ぶらで来たことを後悔した。しかし、家の中に通されて私は更に後悔することになる。
「お待たせしました先生、瀬名はすみさんを連れてきました」
玄関で出迎えてくれたのは、にこやかな男性だった。こんな時間に訪問したことを、微塵にも迷惑そうにはしていないようだ。
彼の師匠だという男性―――大和さんは、国内のバイオリンコンクールで審査員も務めるような人物だ。恐らく初老であろう大和さんは、けれどピンと伸びた背筋のせいで年齢よりもずっと若々しく見える。
「や、夜分失礼します、瀬名はすみです」
「春輝から噂はかねがね。さあ、とりあえずはこちらへ。瀬名さんを待っている人がいます」
「私を……?」
「はすみさん、目玉落ちないように気をつけた方がいいよ」
にやりと笑って春輝くんが忠告して来る。彼がこういう顔をしている時は、大抵が良からぬことを考えている時だ。一層緊張しながら吹き抜けの廊下を進む。リビングと思しき部屋のドアを大和さんが開け、どうぞ、と通される。そこで一人くつろいでいる人物に、私は非常に心当たりがあった。どくんどくんと拍動が一気に大きくなる。その人物と目が合った瞬間、体が固まってしまう。挨拶も何もかも忘れ硬直していると、相手の方がソファから立ち上がって近付いて来た。ほんの一メートルの距離まで来て、私はようやく忘れた声を取り戻したのだった。
「清水、藤也……」
「いかにも、私が」
日本のトップピアニスト、清水藤也その人を前に、いつも通りの挨拶ができるピアノ奏者がいるだろうか。特別ファンという訳ではないけれど、このオーラを前に正常な呼吸ができるはずがないのだ。さあ来週顔合わせをします、と予告されていた訳ではない。このような不意打ちで会うことになるなんて、夢にも思わなかった。しかも今日は母親と一悶着あって家出をして来た身、心身ともに“ちゃんと”していない。今日一日、感情の振れ幅が広過ぎる。リアクションもろくに取れずに顔を引き攣らせていると、清水さんが吹き出した。
「君のことは知っているよ、何年か前に国内のコンクールで見た」
「あの、それは、あまりに、お恥ずかしい限りで」
「城くんにお店で演奏している映像も見せてもらった」
「な、なん…!?」
恐らく、何か演奏の映像を提出していることは予想していた。けれどそれは春輝くんとの活動においての映像だけのはずだった。そのような話、一度も春輝くんからは聴いていない。なんてことをしてくれたんだ、と彼を振り返るが、「良かったね」と言わんばかりの笑みを浮かべている。良くない、何も良くない。
「瀬名さん、君は本当にコンクール向きではないピアニストだ。事実、コンクールにおける君の演奏は良くはなかった」
「は、はあ、はあぁ…」
「けれど、城くんとの活動は、きっと間違いなく瀬名さんのピアノを活かせる」
もう、さっきから何を言われているのか半分ほど分からない。コンクールについては酷評を受けたというのに、全くショックを受けていない。与えられた情報が多過ぎて、まるで処理しきれていないのだ。清水藤也が目の前にいるというだけで情報過多である。その一言一句逃さないよう聞こうとするのに、彼の言葉に集中できない。だらだらと背中を汗が伝っていることだけはよく分かった。
「音楽は瀬名さんが思ったよりもずっと自由で枠がないものだよ」
「自由で、枠がない……」
「コンクールという枠は、きっと君には窮屈だったね。瀬名さんのような若手ピアニストがいると思うと、僕は恐ろしい反面とても嬉しい」
「そ、そんなこと……」
すると、清水さんはちらりと腕時計を見る。どうやら時間らしい。元々大和さんと春輝くんに用事があり、それも済んでいたらしいが、私の到着まで待ってくれたようだ。演奏楽しみにしてるよ、と、とどめの一言を私に告げると、清水さんは帰って行った。
結局私は、最後までろくに清水さんと会話のキャッチボールができなかった。ほんの数分前の出来事だというのに、まるで夢のようだ。コンサート当日まで会うことのない人だと思っていたのだから。あらゆる衝撃で呆然としていると、しかし相方の声が私を現実に引き戻す。
「自分を過小評価する必要はない。瀬名はすみは素晴らしいピアニストだよ」
これまで私が、そんな風に称賛を受けたことは一度たりともない。音大に入る前も、入ってからも、卒業後も。それが正しく評価されていなかったとは思っていないし、憤慨もしていない。当然の結果だと、いつも受け入れて来た。私は天才ではないし、天才たる努力もしていないから、と。それをいざこんな風に評価をされると、身の丈に合っていないと不安になってしまう。私のピアノはそんな賛辞を受けるほどではないものなのに、と思ってしまう。謙遜ではなく、真に心の底から。けれど、それこそ正当な自己評価ではないと、春輝くんまでも首を横に振る。
「僕はピアノは専門ではないけど、清水さんの言うことはよく分かる」
そう言って、一歩私に近付く。今日のこのサプライズの仕掛人とは思えない、先程までとはまるで違う真剣な声音だ。
彼は、この件に関してはいつも意見を曲げない。私が否定する私のピアノを、彼は迷うことなく肯定して来る。それがいつだってほんの少し嬉しくて、とても苦しい。私は彼を一流の音楽家だと思っているし、誰が見てもそうだ。そんな彼に認められることは、どうしたって身に余る。
「言っただろう、はすみさんは何でもできるピアニストだって」
それは、絶対に間違ったことを言っていないという自信に満ちた発言だった。きっと私はこの先も、自分のピアノを好きになれることがなければ、自信を持てることもない。それでもなお、彼は私のピアノを認める。
小さい頃、なんでもできるねと言われるのが嬉しかった。祖父はいつもそう言って私の頭を撫でて褒めてくれた。それは確かに嬉しかったのに、どこか何か足りなかった。その正体が今はっきりと輪郭を持つ。
そう、あの頃、幼い私はいつだって、母親に褒めて欲しかった、認めて欲しかった。あすかのピアノは素晴らしいと、世界一だと、他の誰でもない、母に言われたかったのだ。母が喜ぶからピアノを弾いた、母が喜ぶからコンクールで頑張った。けれど結果は思うようにはいかない。それでも、結果がどうであれ母に認めてもらいたかったのだ。それでもあすかのピアノが好きだと。
もっと早く、春輝くんのその言葉に出会えれば良かった。そうすれば、少しくらいこの卑下する性質も軽かったのかも知れない。