「私が何を言いたいか分かるかしら」
「…黙って出演してすみません」
「もうねっ!うちのメールボックスがパンクしそうなのよッ!仮にも貴女はウチのお店のホームページに載っているお抱えピアニスト!分かってる!?」
要所要所で綺麗なファルセットを使ったお叱りが頭上から降って来た。
件のコンサート以降、私に関する問い合わせがお店の方に殺到しているらしく、対応しきれないと店長やオーナーが疲弊していた。調べものをするとなれば、スマートフォンを取り出して検索するのが現代のメジャーなやり方だ。公演プログラムやチラシに載った私の名前を検索し、出て来たのがこのお店だったらしい。
私自身、ここまで大事になるとは思っていなかった。清水藤矢を目当てにやって来るファンは老若男女様々ではあるが、やはり男女比で言えば女性の方が多い。そんなファン層の中で前座の、しかも女性ピアニストである私に注目されるなんて微塵にも考えなかった。春輝くんはあの通りのバイオリンの実力、そしてビジュアルも清潔感があり、イマドキ過ぎずウケが良い。当然、誰もが春輝くんに興味を惹かれるだろう、とごく自然に思っていた私に罪があるだろうか。
「でも、コンサートに出演することになったって言ったような…」
「お黙りなさいッ!しかも城春輝が相方なんて、贅沢ね!」
「店長、春輝くんのこと知ってるんですか?」
確かに芳井祐介のファンだとは以前言っていたが、意外にもクラシック界に詳しいようだ。すると、ここまで口を挟まなかったオーナーが注釈を入れた。
「この人、こう見えて国立音大中退だよ」
「……なんて?」
「実家の経営不振で学費が払えなくなったんだよね。バイオリンしか取り柄がなくて路頭に迷ってた所を俺が拾い上げたんだよ」
「バイオリンしかって何よ、しかって」
ここで働き始めて五年、店長にそんな経歴があるなんて初めて知った。以前、スタッフの子に昔のことを聞かれていたけれどそれとなくかわしていたので、恐らく触れられたくないのだろうと思い、私も興味本位で訊ねることはしなかったのだ。それを、たった今さらりとオーナーによって明らかにされてしまった。これまで謎に包まれていた店長の過去は、想像よりもハードなものらしい。
「まあ丸くなった方だよね。最初の頃なんて三日で辞めた女の子とかいたし」
「あの、オーナーって店長とどういう関係なんです?」
「高校の同級生」
「腐れ縁」
ほぼ同時に聞こえた言葉だが、どちらがどちらの言葉なのか明白だ。オーナーはにやかな笑みを浮かべながら「だからこいつが女になる前からよく知ってるよ」と、爆弾発言を続ける。
オーナーをじっと見つめる。どう考えても壮年期の男性だ。晩婚化の昨今、予想するのが難しいが、大きい子どもがいてもおかしくない年頃であろう。そのオーナーと高校の同級生の店長は、つまりは同い年というわけで、恐らく美魔女と称されるに相応しいのではないだろうか。出演している人たちをはじめ、店長にもオーナーにも突っ込んだ質問をして来なかった私だけれど、初めて好奇心と言うものが湧いている。しかし、やはりあらゆる疑問が浮かんでもぶつけることは不躾だという気持ちが先行し、私は口を噤んだ。
「私のことはどうでもいいわ。はすみ、貴女これからどうするのよ」
「どうする、とは」
「目立ちたくないからここでは伴奏に徹しているでしょう。けれどこれからはすみ目当ての客が来たらそういうわけにも行かないわよ」
「そ…っか……」
「私もオーナーも貴女たち出演者の演奏のポリシーを曲げろとは言わないわ。けれどそれでは納得しない人は出て来る。その時どうするのか、どうしたいのかはちゃんと考えなさい。城春輝とももちろん話し合うこと」
「……はい」
珍しく、至極真面目なことを言われた。いつも不真面目だと言いたい訳ではないが、今後のことや演奏のことでちゃんと話をされたのは、恐らく採用面接の時以来だろう。僅かに緊張しながら私も返事をした。
「ああ、それから」
「はい」
「城春輝と話す時、うちの店使って良いわよ」
春輝くんに会いたいだけだな、とは察したが、数パーセントの親切心のことを思い、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
音楽を仕事として真面目にやろうと、私は決心していた。それは、これまでのようにお店で他の演奏者の伴奏として存在することではなく、春輝くんと展開して行く音楽活動でだ。きっと、黙って従うだけの伴奏なら春輝くんは必要としない。それに、私に無個性さを求めていないとは、前にも言われたことだ。無個性とは真逆の、万能さを私は求められている。
無個性が何もできないということではない、ということを、私は知っている。けれど、何でもできることが即ち目立つことではないということを私は知った。そして、私の目立ちたくないという気持ちを、春輝くんは理解してくれて―――いや、自分が目立ちたいだけなのかも知れないが、そんな私を逆手に取った。目立ちたくないままでいいから万能であれと、暗にそう言っているのだ。
要求されることが苦しい時期も確かにあった。望まれるような賞を取れず、評価ももらえず、上がったこともないのに早々に落ち目を感じた。応えることができないから要求されたくなかったし、要求されるような舞台に上がらなければ、人に失望されることもないし、誰かと比べられることもない。一番楽な道を私は歩いていた。
ここに来て、二度とないと思っていたギリギリの感覚を味わっている。きっと春輝くんは、私が万能でなくなったらすぐに他のピアニストとトレードする。目立たないけれど下手くそなピアニストよりは、目立つけれど上手いピアニストを取るバイオリニストだ、彼は。技術を要求されることは、苦しい。苦しいけれど、それが喜ばしいことだと、同時に思う。
「店長」
「何よ」
「私、久し振りに楽しいんです、ピアノが」
ピアノを弾くことに対して、何か感情を持ったのは久し振りだ。それこそもう、年単位で生まれなかったものである。そう思えたことは、きっと何よりの財産だと思う。
「だったらやりなさい、楽しくなくなるまで」
やりたくてもできなかったことというのは、これまでの短い人生の中でも、まだ経験はない。ピアノをやりたくなくなったことはあっても、やりたくてもできないなんて時間はなかった。けれど、もしかしたらこの先、弾きたくても弾けなくなる時が来るかも知れない。だったら今、弾ける内に弾くしかない。やれる内にやるしかない。やりたいことを、できる内に。
店長が当時どれだけバイオリンに情熱を注いでいたかまでは分からないけれど、最後に言われた一言は、妙に重く心臓に響いた。