家を出て行くことに関しては、全て環境を整えてから母親には伝えた。まどかの活動休止がまだ明けておらず、弱っているのは明らかだったが、それは私が自分の音楽をするのを諦める理由にはならない。母とまどかの問題は、言ってしまえば私には関係がないのだ。元より、私がどれだけ料理ができるかさえ興味のなかった母親だ。ここまで根回ししなくても反対はされなかっただろうが、念には念を入れた。そう、とだけ返事をした母親の頼りない背中を見て、それでも、ここから先は母も自分の道を見付けてくれとしか思えなかった。
母と私の距離は最早、絶望的なためさておき、私のピアノ事情は当初ちょっとした問題だった。電子ピアノを毛嫌いしていたわけではないが、手元にグランドピアノがあればわざわざそれをメインで使用する必要性がこれまではなかった。バンドなどのサポートのために購入していたキーボードを、この度本格的に常設することになったのだ。しかし、それを主に使い始めると意外と欲が出るもので、引っ越しが落ち着く頃には、私は据え置き型の電子ピアノを購入した。結局、キーボードはまた壁に立てかけられている。
最近は休みがほとんどないほどスタジオに入っていたが、引っ越しに際しては流石に連休をもらった。スタジオと言っても、春輝くんが私財を投じてとうとう自宅の中に作ってしまったスタジオだ。城家は元々音楽家一族であり、自宅にピアノはもちろん音楽機材もある程度整っていたが、とうとう地下室を私たち専用のスタジオに改修してしまったという訳である。声楽家である彼の父が興味津々で見学に来たこともあるくらい、自宅改修に関しては寛容だった。
引っ越しが落ち着き、今日は久しぶりにそんなスタジオに足を運んだわけだが、一連の話を聞いた春輝くんはため息をついた。
「もうギターやバイオリンみたいにほいほい買っちゃだめだよ」
「さすがにしないわよ。場所に限りがあるんだから」
「引っ越してすぐにそんな大きな買い物するなんて、やっぱりはすみさんはロックだね」
「それはどうも」
そんなはすみさんにロックな譜面だよ、と言いながら渡して来た紙の束には、ぎっしりおたまじゃくしが敷き詰められている。彼は確か、目立ちたがらないピアニストをご所望だったはずではなかっただろうか。目立ってくれと言わんばかりのピアノのバッキングに、私は頭の中で必死に引き算を計算する。
私をロックだと度々春輝くんは口にするが、私からすれば彼もなかなかにロックである。突然、清水藤矢のコンサートの前座を獲って来たかと思えば、先日は「配信でアルバム出すことになったからね」などと、来週は代官山でライブだよ、程度の調子で宣告して来るのだ。
どうやら、私が思っている以上に私たちの周りは動いていた。仕事用に開設していたSNSツブヤイッターのフォロワー数の急激な増加、相変わらずのお店への問い合わせ、そして、投稿動画の再生回数の増加が、何より変化を大きく物語っていた。現在私たちの活動の全てを管理している春輝くんが、アルバム配信は今だ、と思うなら今なのだろうが、やはり私には実感がない。
「ここで一つ、擦り合わせをしておきたい」
「擦り合わせ?」
どっさりと渡された新譜に頭痛がしながら目を通していると、神妙な雰囲気で春輝くんは私に声をかけた。初見で弾けとは言われないものの、数分の読譜でピアノに向かえと言われるのは、天才ではない私にとってはなかなかに鬼畜の所業だ。その作業を中断されて、眉根を寄せて彼の言葉を繰り返した。
「はすみさんは、どこまで行きたい?」
「どこまで…」
「直近の目標だよ。具体的だとなお良い」
「それはその…売上とか、どの規模のホールとか、そういうので良いの?」
「ああ」
初めて春輝くんにこの企画に誘われた時、芳井祐介と星名まどかを越えるというなんとなくの目標は聞いていた。けれどそれは飽くまで彼にとっての通過点であることは、活動をして来て分かって来た。あれは言わば短期目標で、きっと彼にとってもっと大きな、もっと先を見据えた何かがあるはずだ。
そう言う話をそういえばして来なかったな、と思い返す。大きく動き始めた今、具体的に目標は共有しておくべきだ。私たちは遊びでやっている訳ではない。音楽で生計を立てて行こう、というのだから。
二人で舞台に立っている姿を想像する。東都芸術劇場、芸術村ホール、リチャードホール、思いつく限りの都内の音楽ホールを想像する。不可能かどうかは考えない。私たちの音楽が”良く”響く場所と言えば。
「…ヨ、」
「ヨ?」
「ヨントリーホール…」
「…はすみさん、それ本気?」
春輝くんが目を細める。次に出る言葉は、冗談はやめろ、か、現実的ではない、か。まるで裁判で判決を言い渡されるのを待っている気分だ。たっぷりと間を取って、やがて彼は息の長い溜め息をついた。これは、呆れている時の溜め息だ。まだ彼と活動を初めて一年未満ではあるが、そろそろ彼のリアクションの意味を汲めるようになって来てしまった。
ヨントリーホールとは、日本で最高と呼ばれるクラシック専用の大きな音楽ホールだ。そこで演奏したとなれば、音楽家として箔がつく。プロのクラシック演奏家ならだれもが憧れる聖地、それがヨントリーホールだった。ただ、クラシック演奏のために作られたとだけあって、その界隈のリスナーでなければ足を運ぶことはほとんどないかも知れない。
「簡単じゃないよ、ヨントリーホールなんて。大人が絡まないとまず僕たちだけでは無理だ」
「わ、分かってるよ。でも、だから今、春輝くんは色んな会社と交渉してくれているんでしょう?」
「そうだけど、清水さんだってあそこでそうホイホイ単独公演なんてしないのに、まさか最初の目標にそこ挙げるかなあ」
「直近って言ってたね、そういえば…」
話を聞いてなかったな、という視線が飛んで来る。聞いていなかったわけではないが、つい思考が飛躍してしまった。言わば最大目標を口にしてしまったのである。ただ、私の想像したような返事が来ない辺り、恐らくぼんやりとそれと同等の目標を彼も考えていたのではないだろうか。ついクラシック演奏に向いたホールを浮かべてしまったが、それこそ他の楽器のサポートメンバーを入れれば、ライブハウスでの演奏だって夢ではない。芳井祐介や星名まどかに対して変化球を狙う春輝くんとしては、武道館なんかを想像したのかも知れない。それでも大人が絡まないと公演の実現などできないが。
「ピアノ壊すくらい弾いてもらわないといけなくなるなあ」
「リストじゃないんだから」
「僕も曲をたくさん書くから、はすみさんには初見で完璧に弾いてもらおうかな」
「だからリストじゃないってば」
面白がって、その内リストの友人であったショパンの再来と言われる清水藤矢まで絡めて来そうだ。私がヨントリーホールなんて大層なことを言った仕返しだろうか。
変な汗をかく私に、彼は更に楽譜を広げて見せた。
「…まさかこれって」
「新編ラ・カンパネラ」
「は……」
「僕はパガニーニになる覚悟をした。はすみさんも覚悟決めてリストになってよ」
城春輝には作編曲の才がある。それのみならず、その早さは尋常ではなかった。作編曲を行わない私がそれらの楽曲を自分のものにするのが追い付かないほど。彼は、自分は天才ではないと口癖のように言うが、これが才能でなければ何を才能と呼ぶのだろう。
毎度、楽譜を渡される度にぞっとする。この演奏家は底が知れない。彼が世界に認知されない演奏家、作編曲家であることは、世界的損失のようにも思う。もっと広く認知されてもいい、もっと高く評価されてもいい音楽家なのだ。そのチャンスに恵まれなかった原因は、一体何だと言うのだろう。どうしても、ただ不運だった、としか思えないのだ。
「この曲は、僕たちの代表曲になる。僕はそう確信している」
目立たないピアニストが欲しい、と言った城春輝が編曲したラ・カンパネラ。目まぐるしくバイオリンとピアノの旋律が入れ替わり、ピアノがただの伴奏ではないことは譜面を見れば明白だ。対等な主張を要求して来るような曲が彼から生まれるとは思わなかった。過去、彼の作編曲した曲たちは、幅広いジャンルの高い技術を要求して来ながら、決してピアノを前に出すような書き方はされて来なかったから。
求められるピアノの形が変わって行く。鳥肌が立った。まるで、コンクールの舞台袖にいる時と同じだ。私は、決してこれまでもピアノが嫌いなわけではなかった。コンクールに出ることも苦ではなかった。結果が伴うことはなかったが、舞台に立つ高揚感が忘れられない訳がなかったのだ。けれど、結果が伴わないがゆえに私がピアノを弾く必要性を感じられなくなってしまった。前に出るべきピアニストではないと、やがて自分で烙印を捺してしまったのかも知れない。
バイオリンとピアノ、両者の主張激しいこの編曲は、私に「前に出ろ」という彼からのメッセージだ。それを理解しつつ、私は今、目の前の音楽家をもっと世間に知らしめたい。この才が雑音の中に埋もれてはならない。
「至高のカンパネラね」
そして彼の言った通り、後に城春輝編ラ・カンパネラは、私たちの代表曲となる。配信を契機に高く評価され、大手企業のCMに起用までされた。城春輝の名前は、瞬く間に日本に広まったのだ。自分たちの活動以外にも楽曲提供や著名な演奏家との共演も決まり、テレビドラマの劇伴や、映画音楽などにまで活動の幅を広げて行く。
その頃にはもう、妹の存在も、母親とのことも、私からは切り離されていた。そして、夢みたホールでの単独公演への足音が、すぐそこまで近付いて来ていた。