色々と考えた結果、私たちはとある芸能事務所に所属することにした。今の時代、フリーでもやっていけないことはないのだろうが、如何せん私と春輝くんに関しては、仕事の比率が明らかに春輝くんに偏っている。テレビ出演、ラジオ出演など、メディアへの露出の機会も増え、これ以上彼の仕事を増やすのはどう考えてもよろしくはなかった。途中、清水さんや大和さんの助言もあった。清水さんはもちろん、芳井祐介やまどかも事務所所属の演奏家だ。一人の力に限界がある以上、やはり頼れる部分は人に頼った方が良い。これから私たちが目指して行く場所を思えば、それは尚のことだった。
「それで、出だしがこれってどう思う、はすみさん」
「ちょっと…びっくりしちゃったわね…」
スマートフォンの画面をこちらに向けて、春輝くんは真顔で問う。今日は次のコンサートに向けた打ち合わせと練習のはずだったのだが、スタジオに入るなり私たちは楽器に見向きもせず、向かい合って会議をする羽目になってしまった。
隠していたわけではないのだが、ネットニュースに私とまどかが姉妹であるという記事が掲載されたのだ。しかもそこには、まどかと私の格差についてや、姉妹仲もあまり良好ではないことまで書かれている。『CMで噂のピアニストの妹はあの世界的バイオリニスト!』、これはまだいい、公表していなかっただけの事実だ。『天才バイオリニストの妹への嫉妬に燃える姉―――妹のライバルを相方につけピアノでのし上がるまで』、これは見出しから悪意がある。お節介な知人がわざわざニュース本文のスクリーンショットを送り付けて来たため、ちらりと記事本文も見えてしまったのだが、随分と誇張されて悪意に塗れた記事だった。
「今ちょうど、音楽業界に大きなスキャンダルがないから暇なんだろうね」
「こんなことなら本名で活動するべきだったかしら」
「あんまりそれは関係ないと思うけど。僕はこの件ではすみさんのモチベーションが削がれてないか心配なんだよね」
深く話している訳ではないが、さらっと星名家の状況について知る春輝くんは、彼なりに心配してくれているらしい。さあ、これから全国ツアーが待っているぞ、という時期である。宣伝も始まり、チケットもプレイガイドで発売が始まった。メディアの餌食になることはいずれあるかも知れない、とはうっすらと思っていたが、それが今だったとは。しかも、記事内容もヘビーでマイナスイメージのつくようなものだ。
しかし私としては、こんな忘れた頃に、という印象だった。最近の忙しさで実家のことなど構う暇がなかったのだ。物理的な距離ができてしまうと、余計に考えることなどなくなる。音楽に集中できるわ、雑念は消えるわと、やはり実家を出たことは正解だったのだと感じていたくらいだ。
「ツアー前に腹は立つけど、あんまり興味はないかな」
「興味?」
「まどかに対しても親に対してもね、もうあんまり興味はないから」
「じゃあ、活動へのモチベーションは?」
「下がるはずないよ」
記事に対して、あることないこと書きやがって、という気持ちがない訳ではない。けれど、それとこれとは別だ。どうせ面白半分に書かれた記事のライターは音楽に興味などないのだろうし、私たちの音楽を真面目に聴いたこともないのだろう。もちろん、まどかのバイオリンだって。正しい批評なら受け止めるが、こういうものは”下らない”と相手にしない方が良いだろう。つけあがって来るようであれば法的な措置を取ればいいだけで。その為に事務所に所属したのだし、その為に弁護士もいる―――そう言うと、春輝くんはいつもの悪い顔をした。
「はすみさんのそういう所、変わらなくて好感度が上がるね」
「当たり前のこと言ってるだけなんだけど」
「何にもできないお嬢様ピアニストじゃなくて良かったよ」
「それはどうも…」
さて、と切り替えも早くコンサートについての打ち合わせが始まる。曲目から衣装まで事務所は殆ど全てをこちらに任せてくれている。主張の強めな春輝くんは、そういう自由なやり方が気に入って当事務所からのスカウトを受けたわけだが、以前とあまりやり方を変えなくて良かったのは、私にとっても都合が良かった。売り出し方が変わればこれまでの楽曲の世界だって崩れてしまう。昔の楽曲で私を前面に出そうなどと言われようものなら、すぐに春輝くんが退職届を突き付けてしまいそうだ。以前より彼もマイルドになったとは言えども。
「で、ここまでで何か意見は?」
「そうね…ここ、入れ替えたら?多分、城春輝のバイオリン聴きたい人はこの二曲は続けて浸りたいはず」
「僕は良いけど、はすみさん指つらないでね」
「がんばりまーす……」
あとは通しでやってみるしかないね、という締めの言葉で、曲目についての打ち合わせは終わった。コンサートの第一部は本格的なクラシックをメインに、第二部はアレンジからオリジナル曲まで、エンターテイメント性に富んだ構成になった。ありがちな構成かも知れないが、やはりどちらのファンにも楽しんでもらうには、二部構成にするのが最善であるという結論に至った。
パガニーニになると宣言して以来、春輝くんは変わった。以前に増して音楽に対して鋭くなったし、誠実になった。スポンジの如くあらゆるジャンルの音楽を吸収しては、自分の作品へ昇華している。しかしそこに自分のオリジナリティも忘れない。クラシックアレンジも、新規楽曲も、どんどん研ぎ澄まされて行くようだ。彼は、有言実行と言う言葉が似合うバイオリニストだと思う。現在、日本のバイオリニストで最も有名な人物は、芳井祐介でも星名まどかでもなく、城春輝だろう。コンクール成績では常に二人の次点についていた彼が、ようやくそれを覆した。
そんな彼に負けるわけには行かない。私も現状維持では済まされないのだ。プロとして、音楽を仕事にしている人間として、今の地位に甘んじることは許されない。根も葉もないゴシップ記事に評価が左右される演奏家でいてはならない。もっと実力を付けなければ、もっと。
スタジオ帰り、今もグランドピアノを使わせてもらっているお店に寄った。開店前であることを知らせるcloseの札を無視し、扉を開ける。すると、そこには店長の他に、客と思われる女性が一人、カウンターに座っていた。
「すみません、邪魔でしたか」
「構わないわ。まだ開店まで時間があるから好きに使いなさい、ピアノでしょう」
「ありがとうございます」
二人に頭を下げて、真っ直ぐにピアノに向かう。私はこのお店のピアノが好きだ。その辺の安い音楽スタジオだと、どうしてもピアノが小さい。ここは、ステージ用にそれなりの大きさのピアノが設置されている。きっと維持費も馬鹿にならないだろうに。
店長はタダでいくらでも使いなさい、と言ってはくれたけれど、維持費のことを考えるとそうも行かない。毎回、スタジオ代相応くらいは出そうとするのだが、店長もオーナーも頑として受け取ってはくれない。その代わり、「ヨントリーホールSS席二枚で良いわよ!」なんて言われている。良いプレッシャーだ。けれど、最近はそういう周りの期待が少し嬉しい。私たちは、あのホールで演奏するだけの価値があるという評価をされているのだから。
それでも時々、心の奥底に押し込んだ呪いが顔を出す。私が思ったような成績をコンクールで残せず、まどかが幼くしてコンクールで優勝を獲った日、母親に言われた言葉だ。
「あすかはもう好きにしたら良いわ」
十歳にも満たない私の心臓に圧し掛かった言葉は、何度封じ込めても消えることはない。期待されたかったし、期待に応えたかった。けれど掛けられる期待は有限なのだと知ったあの日、諦めを覚えてしまった。いつかは私も飽きられてしまう。誰もわたしに何も望まなくなる。いつか、いつかは。
激しく鍵盤を叩く。私を呑み込んでしまいそうな、そんな黒い影を掻き消すように。これとは、私も付き合っていく覚悟をした。一生消えない呪いを何度も、何度でも私は抑え込まなければならない。口では何とでも言える。気丈に振る舞うことも、殊勝な発言をすることも。貼られたレッテルは消えないと言うのに。
奇しくも今日、春輝くんから渡された新譜には”宿命”という題名が付けられていた。