第三話

 今日は残業もなく仕事を終えられるだろうと、時計を見ながらそわそわしていた時だった。

「えーみちゃん!」
「ひ…陽月ちゃん?」

 外来の薬局カウンターに現れたのは陽月ちゃんだった。その後ろには当然果林ちゃんもいる。
 ここは病院で、病気や怪我をした人が来る所で、今朝家を出る時には特に二人とも体調なんて悪そうにはしていなかったはずだが。動揺で言葉も出ずにいると、「陽月が詠実ちゃん迎えに行きたいって」と従姉妹は言った。確かに何かあった時の為ためにと職場は教えてあったが、まさかただお迎えのためだけにこんな所に現れるとは思ってもみなかった。

「お仕事おわる?」
「あと十分くらいかな」
「陽月、ここでえーみちゃん待ってる」
「うーん…外で待っててほしいなあ…」

 キラキラした目でカウンターの向こうから見つめられると、如何せん仕事がしづらい。もうあと一人分だけ院内処方を外来患者に渡す仕事が残っているのだ。何か期待を込めたような眼差しを送られて来ており、これでは受け取りに来る患者も気まずいだろう。なんとか果林ちゃんに頼んで、病院の玄関口を出た所で待っていてもらえることになった。
 従姪に懐かれて気分が悪いわけではない。けれど、子どもとの接し方が分からなければ、身内との距離感も未だ測りかねている。ものすごく可愛がっているわけでもない私に、陽月ちゃんがこんな風に好意を向けてくれる理由は一体何なのだろう。単に、母親以外の身近な大人が珍しいと言う好奇心からだろうか。
 最後に薬を引き取りに来た高齢女性の患者は、先程のやり取りを見ていたらしく、「可愛いわね、姪っ子さん?」と訊ねて来た。従姉妹の娘なんです、というのもややこしい。この患者と深い関係でもないので、ええそうです、と答えて私は処方された薬の説明をした。

「藤倉さん、姪っ子ちゃんいたんですね」

 浜野さんまで従姉妹の来訪を目撃していたようで、薬剤部を出てから声を掛けられた。行先は同じ更衣室なので、自然と並んでエレベーターに乗った。各部署や職員用エレベーターには、階段の使用を推奨するポスターが貼ってある。しかし、一日の終わりに、地下の薬剤部から誤解の更衣室まで階段で昇る気にはならない。私たちがエレベーターを選択するのはいつものことだった。

「うーん…うん」
「姪っ子じゃないんです?」
「まあ、似たようなものなんだけど」

 歯切れの悪い私の返事に何かを察したのか、浜野さんはそれ以上言及しては来ない。
 私には、人に言い辛いことが多い。後ろ暗いことや言葉にするのを躊躇うことが、ここまでの人生の中で多かったのだ。きっと言えたらすっきりするのかも知れないけれど、私の中に蟠っているそれらを上手に話すのはとても難しい。患者さんに薬の説明をするのとはわけが違うのだ。
 だから、こういう風に丁度よく引いてくれる後輩の存在は有り難かった。彼女とプライベートでもよく会うのは、単に趣味が合うからというだけではない。ほどよい距離感を保ってくれて気が楽だからだ。

「…浜野さんさ、自分が子どもの頃のことってよく覚えてる?」
「どれくらい子どもの時ですか? あの子どもちゃんくらい?」
「うん」
「ずっとテレビにかじりついてましたよ。悪を倒す正義のヒロインになりたくて真似してましたね」
「可愛かっただろうね」
「いやそれが、子どもの時の私、めちゃめちゃ可愛かったんですよぉ」

 うふふふ、と笑いながらそう言ったタイミングで、エレベーターが到着する。空っぽの箱に乗り込んで、浜野さんは話を続けた。

「待って下さいね、七五三の写真なら今見せますよ」
「持ってるの?」
「実家に帰った時にスマホで撮って来ました」

 写真フォルダを勢いよくスクロールし、ある所でぴたっと止まった。ほら、とこちらに向けられたスマートフォンの画面には、ピンクのドレスを着た三歳の頃の浜野さんが映っていた。この頃から愛嬌があったらしく、カメラ目線で笑顔をきめている。その愛らしい笑顔は、今の浜野さんにも少し面影があるようだ。
 私の三歳の時の写真なんて、どれも真顔だった覚えがある。これはカメラマンさんの手腕なのか、私と浜野さんの性格の違いなのか。恐らく、子どもの頃から私は笑うのが苦手だった。昔、親戚の集まりで撮った写真をいくつ見返しても、その中に私の笑顔はなかった。それだけでなく、幼稚園も、中学校も、高校も、どの時期の写真を見てもだ。さぞかし“可愛くない”子どもだったことだろう。
 しかし、「可愛いでしょう」と言う浜野さんに、「可愛いね」と返すと、それはそれで目を丸くして驚かれてしまった。私だって人を可愛いと言う時くらいあるのだが、そんなに珍しいことだっただろうか。
 五階です、というエレベーターのアナウンスが流れて、再び扉が開く。

「可愛いじゃない」
「いや、え、へへ、えへへへ」
「そういうところ、浜野さんは今も可愛いよ」
「へあっ」

 とうとう変な声を出して固まってしまった。浜野さんなら可愛いだなんて言われ慣れているだろうに、何をそんなに固まることがあるのか。また不思議な笑いをして、ロッカーに向かう私の後ろをついて来る。
 こういう、正直に気持ちを出せてしまう所が可愛いと思う。私はそれがとても苦手だ。それでも、私は妹だから無条件に可愛いのだと、兄はよく言ってくれた。けれど、兄の他にそう言ってくれた人はいなかった。可愛くないとばかり言われて来たのだ。
 そういう生い立ちを恨むのはきっと簡単だ。なかったことにするのは難しくても。私は、恨むこともできず、なかったことにもできない。ただずっと“ここ”に留まり、蟠っている。幼い頃からの積み重ねがこの体に停滞しているのを感じる度に、私の言葉は口から出なくなってしまう。
 話すことができれば楽なのにと、何度思ったことだろう。

「…私は子どもらしくない子どもだったからね」
「え?」
「なんでもないよ」

 浜野さんが、とても私にいろいろなことを訊きたそうにしていることは知っている。訊かないでいてくれる彼女の優しさに甘えているのは私だ。浜野さんは自身のことを話してくれて、どんな子どもだったか、どんな家庭で育ったのか、私は知っている。浜野さんは、ふんわりとしか私の家の事情を知らない。
 別に、だからと言ってどうということはない。互いの家庭事情を知らなければ友人になれないわけではない。どんな親の元で、どんな家庭で育とうが対峙しているのはその人自身だ。その背景に共感できることがあれば、理解できないこともきっとある。それは浜野さんに限った話ではなくて、果林ちゃんだってそう。相手に対してはそう思うのに、逆に私自身を問われると、途端に恐ろしくなってしまう。幻滅されてしまうのではないかという恐怖がついて回って来る。

「はー…藤倉さん好き」
「あはは、どうも」
「私より先にこの病院辞めないで下さいね」
「強制昇格になったら分からないな」
「その時は私も一緒ですからね!」
「はいはい」

 今のところ退職する予定はないのだが、彼女の目には私が辞めそうに映っていたのだろうか。今回は昇格を断ることができたし、忙しい仕事ではあるが、辞めるほどの決め手になるような事件は特にない。結婚の予定がなければ、地元に帰る予定ももちろんない。
 時折こうして、この後輩は私を引き留めにかかるが、自分はどうなのだとつっこみたくなる時はある。またいつものように流して、ロッカーの位置が遠い彼女とはそこで別れた。
 果林ちゃんたちを待たせていたことを思い出し、いつもはのんびり着替えるところを、二倍ほど急いで着替える。浜野さんお疲れ、と、更衣室のどこかにいるはずの彼女に声を掛け、その場を後にした。
 そして待たせていた二人は、病院の玄関横に設置されている長椅子に座っていた。私の指定した通りの場所だ。

「お疲れさま、詠実ちゃん」
「陽月ちゃん、なんで迎えに来たいって?」
「早く詠実ちゃんに会いたかったんだって。あんまりこういうこと言わないから連れて来ちゃった。ごめんね」
「いや、いいけど…びっくりしただけで……」

 果林ちゃんに手を繋がれた陽月ちゃんに視線を落とす。すると、母親の後ろに隠れて「ごめんなさい…」と小さな声で言ったのが聞こえた。…多分、こういう所だ。私が小児科病棟に上げられない理由は。
 屈んで陽月ちゃんに視線を合わせる。すると、じわじわと陽月ちゃんは果林ちゃんの後ろから顔を覗かせた。

「…怒ってないよ」
「ほんとう?」
「ほんとう」

 めいいっぱい口角を上げてぎこちなく笑いかける。どう考えても愛想の良い笑顔ではなかったと思う。慣れない表情に頬が引き攣るのを感じた。けれど、陽月ちゃんはようやく果林ちゃんの後ろから出て来てはにかんで見せた。
 ひとまず今日は、これで正解だったらしい。