第四話
仕事が休みの前日は、少しだけ夜更かしをする。自室に籠って少しの間、ゆっくり読書をするのだ。壁を覆うように設置した本棚から、その日の気分で読みたい本を手に取る。一度読み始めると最後まで止まらなくなるので、こういう時に選ぶのは短編集だ。
有村海の初期の短編集を本棚から抜き取ると、棚の一角に設置したCDプレーヤーのスイッチを入れる。次は、CDを詰め込んだ棚の前へ移動して指を滑らせる。取り出した一枚は、昨年発売された一枚のアルバムだ。デッキのOPENと書かれたボタンを押して、円盤を入れる。薄い一枚を飲み込んだデッキは、ほどなくしてアルバムの一曲目を流し始めた。
幼い頃に少しだけバイオリンを習っていた私は、バイオリンの音楽を聴くのが好きだ。とりわけ、私が好きなのは若手バイオリニスト、城春輝だ。彼の音楽を聴くためにこのCDプレーヤーはこの部屋にある。
この時間が何よりも落ち着く。自分を取り囲むたくさんの本、大好きな音楽、座り心地の良い一人がけのソファーに、ハーブティーを入れたカップを置くための小さなサイドテーブル。スマートフォンの通知を切り、時間を忘れて読書に没頭してる間は、何もかも忘れて心穏やかでいられる。
短編集の一本目を読み終える頃、控えめにこんこん、と部屋のドアをノックされた。続いてゆっくりとドアが開けば、予想したところに人の顔はない。目線を下げれば、ドアノブより低い位置に陽月ちゃんの顔があった。
「えーみちゃん?」
「…な、なあに」
「えーみちゃん、本読んでるの?」
「うん」
お風呂を出たばかりなのだろう、パジャマを着ているがその髪は濡れている。まだ肩にはタオルをかけている状態だ。
ドライヤーはまだなのかと不思議に思っていると、リビングの方からは果林ちゃんの話し声が聞こえる。どうやら電話に出ているらしい。子どもが風邪を引いてもいけないので、代わりにドライヤーをしてやろうかと思っていたが、そう声を掛ける前にとことこと部屋に入って来る。私の手に持っている小説をじっと見つめた。
「陽月もよみたい」
「陽月ちゃんが読めるような本は…ないかなあ…」
「陽月、漢字もよめるよ」
「そ、そうなの? えらいね」
「うふふっ」
時々、果林ちゃんに見守られながら何か勉強しているなとは思ったが、来年小学生とはいえもう漢字が読めるとは驚きだった。
「海?」
「ああ…有村海さん。この本を書いた人」
「陽月のお友だち、海斗くんっているよ。おんなじ漢字だよ」
「本当に読めるんだ…」
話している間にも、ぽたぽたと陽月ちゃんの髪の先からは水滴が落ちている。貸して、と言ってその肩からタオルを取り、髪を拭いてやる。「きゃー!」と言いながら陽月ちゃんはけらけらと笑い声をあげた。子どもの髪なんて拭いたことがないので多少乱暴になってしまったが、母親とは違う雑さが逆に新鮮で面白かったらしい。ついでにドライヤーも、と思ったのだが、くいっと小さな抵抗を感じる。立ち上がろうとした私の服の裾を陽月ちゃんが掴んでいた。
「あのね、陽月ね、海斗くんとなかよしでね、…海斗くん元気かな」
「元気だよ、きっと」
「海斗くん、もうすぐ弟うまれるっていってた」
「そっか」
「うん」
果林ちゃんになんと言われて神戸を出て来たのかは知らないが、この聡い子どもは、きっと察している。もう海斗くんにも、その弟にも会えないことを。保育園の年長は、大人が思っている以上にたくさんのことを私たちから感じ取っている。果林ちゃんがこれからの行き場を探していることもなんとなく察しているだろうし、それを邪魔するまい、聞かないでおくまいとして私の部屋にやって来たのだ。
私も、大人の顔色を窺いながら育って来たので、そんな陽月ちゃんの姿を見て他人事とは思えなかった。子どもの世界には子どもの世界なりに問題はあるだろうが、子どもの世界に降りかかる大人の問題に気を遣って、素直で純粋なままでいられないというのは気の毒な気がする。
本当は、仲良しだという海斗くんに会いたいのだろう。けれど、その言葉を飲み込むかのように「元気かな」と続けた。母親に気を遣うのなら分かるが、私にまで言いたいことを言えなくなってしまうのは、それは年相応の子どもの姿なのだろうか。
(いや、そもそもこの歳の子が母親にも気を遣うって…なんか違うよな……)
本来のまだあまり理屈が通じない子どもらしい子どもを相手にするのも大変ではあるが、こうも周りの大人に気を遣う子どもを相手にするのも、なかなか神経を使う。もし私が浜野さんであれば、上手に甘やかして母親に言えないようなことを言わせてあげたりできるのだろうが、生憎と私にはそのスキルがない。仕事以外で他者交流をできるだけ避けて来たツケを払わされているのだろうか。
話を逸らすこともできず、どうしようかと思案していると、申し訳ないことにまた陽月ちゃんが気を遣ったのか、話題を提供してくれた。
「えーみちゃんはきょうだいいるの?」
それは、この流れでは何もおかしくない質問だった。けれど、心臓が冷える。その動揺を悟られないように、陽月ちゃんにこれ以上気を遣わせないように、努めて冷静に返答する。
「…お兄ちゃんがね、一人」
「えーみちゃんお兄ちゃん、元気?」
わしわしと、陽月ちゃんの髪をタオルでもう一度拭く。今の表情をこの子に見られるわけにはいかなかった。
「お兄ちゃん、元気がなくてね」
「元気ないの? おかぜひいた?」
「うん」
「えーみちゃんお兄ちゃんに会えない?」
「…ちょっと、難しいかも」
そっかあ、と言って陽月ちゃんは俯く。海斗くんに会いたくても会えない自分と照らし合わせているのかも知れない。
ドライヤーしようか、と話を変えるべく声を掛ける。すると、ぱっと顔を上げて「ドライヤー? えーみちゃんのドライヤー?」ときらきらした表情でこちらを見上げて来る。いつも果林ちゃんにしてもらっているのと変わりはないだろうが、なぜか嬉しそうだ。髪を拭いてやった時もそうだが、何が子どものツボに入るかは分からないものである。いや、単に物珍しいだけなのだろうが。
私の手を引いて洗面所に向かう陽月ちゃんは、鼻歌を歌っている。ようやく六歳児らしい姿に戻ったな、と思った。
ドライヤーのコンセントをさして準備をすると、まだ洗面所の鏡には顔の全部も映らない陽月ちゃんは一生懸命背伸びをしている。さあどうぞと言わんばかりに期待に満ちた顔をする陽月ちゃんを鏡越しに見て、そんな大層なことはできないのだが、と思いながらドライヤーのスイッチを入れる。なかなかこんなプレッシャーに思うドライヤーもないと思う。
「陽月ちゃん」
「なあに!」
「……会いたいね」
「えーっ!? 聞こえなーい!」
「なんでもない!」
えーみちゃん変なの、と言ってまた楽しそうに笑う。
陽月ちゃんの海斗くんに会いたい気持ちと、私の兄に会いたい気持ちは同じだ。子どもだからとか大人だからとか関係なく、等しくそこには寂しさがある。大きさも重さも変わらない寂寥を抱えている。
ただ、陽月ちゃんには可能性がある。もしかしたら、いつかどこかで会えるかも知れないと言う希望が。果林ちゃんが今後住む場所をまだ決めかねている限りは、神戸に戻るという選択肢もないわけではない。それでも無責任なことは言えない。たとえ子ども相手にだって決して嘘は言ってはいけないし、厳しい言い方をするなら安易な希望を持たせてもいけないと思う。そこは果林ちゃんも同じなようで、娘に対して是とも非とも言わないのだ。可能性を誇張することも、全くないと言い切ることもしない。そこになんらかの事情があることを察している陽月ちゃんの利口さに、果林ちゃんは甘え過ぎるべきではないと思う。けれど、人の子育てに口出しすべきではないということも私はもちろん分かっている。だから何も言わないけれど、それと陽月ちゃんを気遣うことや甘やかすことは、それとはまた別だ。
「終わったよ」
「はやーい!」
「果林ちゃんがやるのと変わらないと思うけど…」
「えーみちゃんありがとう!」
「どういたしまして。…ココア飲む?」
「いいの?」
「いいよ」
兄もココアが好きだった。だからこの家には年中ココアがある。私も甘いものは嫌いではないが、私以上に甘いものが好きだった兄は、小さい頃からの夢を叶えてパティシエになった。兄が学生の頃も就職してからも、勉強と称してあちこちにケーキを食べに私を連れ出してくれていた。
そんな兄が生きた年数を、いつの間にか私の年齢は超えてしまっていた。兄が亡くなってからこの八年、私は一度も家にココアを切らしたことはない。