第五話

 陽月ちゃんがココアを飲み終える頃、果林ちゃんの電話はようやく終わった。果林ちゃんが陽月ちゃんの歯磨きをしてやって、陽月ちゃんが眠る頃には二十一時を回っていた。いつもより一時間ほど遅い就寝時間に、最後には陽月ちゃんはほとんど眠っていて、おやすみも言えなかったほどだ。
 リビングの隅に二人の寝床は用意しており、先に陽月ちゃんを寝かしつけると、ダイニングテーブルの席に果林ちゃんは腰を落ち着けた。2LDKの部屋に住んではいるが、一室は私の小さな図書室、もう一室が私の寝室となっているため、申し訳ないが客間に使える部屋がリビングの隅しかなかったのだ。

「ごめんね、陽月がいろいろ訊いたみたいで」
「いや、それは全然…」

 半分寝言のようにむにゃむにゃ言っていた「えーみちゃんおにいちゃん…」という一言で、果林ちゃんは何か勘付いたらしい。だが何の悪意もない幼い子どもとの会話だ。謝られるようなことは何もしていない。
 毎日こうして話すわけではないけれど、陽月ちゃんが寝た後に、大人二人で過ごす時間は時々ある。今日はもうこれ以上読書する気にもならず、ハーブティーも早々に飲み干して、新たに缶チューハイを二本、冷蔵庫から取り出した。冷えた缶をを一本果林ちゃんに渡す。すぐにプルタブを引っ張り、小さな声で「乾杯」と言った。

「…何年だっけ、湊人くん。七年…や、八年?」
「うん」
「あれから実家には…」
「行ってないよ、一回も」

 実家には、兄の葬儀の時に戻って以降、一度も足を運んでいない。当時私はまだ学生だったが、それでも実家には寄りつかなかった。ただ、娘が大学を出ていないという事態だけは防ぎたかったのか、学費は支払われていたし、生活できる程度には仕送りもされていた。世間体や体裁を気にする両親の元で育ったため、そこだけは不幸中の幸いだったと言える。
 それ以外は、全てが不幸だった。兄が亡くなった時でさえ、「あんな仕事をしていたからだ」と兄の懸命に働いた時間の全てを否定した。兄も私も、親の希望する通りの進路に進めなかった。それ以降、あの両親にとって私たち二人は憎しみすら抱かれていたほどだ。
 果林ちゃんも、伯母から藤倉の家のことは聞かされていたのだろう。どういう風に脚色されて話されたのかまでは分からないが、私たち兄妹の出来の悪さは会う度に不満として噴出していたらしい。

「湊人くんはさあ、優しかったよね」
「うん」
「就職したての頃も詠実ちゃんに仕送りしてくれてたんでしょ?」
「薄給だっていつも嘆いていたのにね」

 兄は仕事が好きだった。大好きな甘いケーキに囲まれて、就職してからも勉強や研究は続いていた。私が臨床実習中には、よくお店のケーキを差し入れてくれた。
 兄も当然、実家とは折り合いが悪く、就職は実家から遠く離れた東京にしていた。私も兄のいる東京の大学を選んだため、頻繁に様子を見に来てくれていたのだ。過保護なくらい私を可愛がってくれた兄は、私が東京に進学するなら一緒に住むかとも言ってくれたほどだが、それはさすがに丁重にお断りをした。その時のショックを受けた兄の顔を今でもよく覚えている。
 けれど、一緒に住んでいれば気付けた異変もあったのかも知れないと、私はずっと後悔している。若い故に病の進行は早く、兄はあっという間に仕事ができなくなり、最期を病院で迎えることになった。入院中、誰より病院に通ったのは私だ。
 小さな結露でぬれたアルミ缶の表面をなぞる。濡れた指先をこすると、末梢がよく冷えている。

「私も一回お見舞いに言ったんだけど、湊人くんの中では私はずっとちっちゃい果林ちゃんだったみたい」
「あはは、結婚式にも出ておいてなにそれ」
「陽月に会わせてあげたかったなあ」
「きっと可愛がってくれたよ」

 私たちの世代で一番年上だった兄は、私を含め従姉妹たちの面倒をよく見てくれていた。そのせいか子どもの扱いも上手く、小児科でも実習があると言うと羨ましいなんて言っていたものだ。

「…湊人くんのお見舞いに行った時、私の心配までしてくれていたんだよね。自分が一番大変な癖にさ」
「そういう兄だよ」
「そうだね」

 果林ちゃんが伯母から私と兄の話を聞いていたように、私も母から果林ちゃんの話をよく聞かされた。果林ちゃんの両親は幼い頃に離婚しており、母娘二人きりで暮らしていた。逃げ場のない二人きりの生活で、果林ちゃんは藤倉家とは違う形のプレッシャーをかけられ続けていたのだ。私たちの祖母から離婚しシングルマザーになったことを責められ続けた伯母は、とにかく普通に生きろと果林ちゃんに言い聞かせて来たのだ。高校を出たら普通に大学進学し、普通に就職し、普通に結婚し、普通に子どもを産みなさいと。なんで普通に生きられないの、と顔を見る度に祖母に責められていた伯母は、自分の娘にこそ普通に生きろと、横道逸れるなと言い続けていたのだ。その話を聞いた時、血は争えないなと思ったものだ。
 そういう家庭環境であるがゆえに、果林ちゃん自身も離婚した今、実家を頼れずにいる。

「詠実ちゃんも優しいよね。何年も会ってなかった従姉妹が突然押しかけたって言うのにさ」
「私は、そんな……」

 数年ぶりに会った従姉妹を無碍にできないのは、従姉妹の育ちに同情した自分がいるからだ。一般的ではない家庭で育った私は、同じく一般的ではない家庭で育った彼女を見捨てることなんてできない。互いに行き場のない同士だ。今の私にはこの2LDKがある。けれど、頼れる身内はいない。果林ちゃんも同じだ。まして、果林ちゃんは彼女一人ではなく娘がいる。途方に暮れて、藁をも掴む気持ちで私を頼って来たに違いない。
 よく眠る陽月ちゃんを見やる。時々身じろぎはするものの、起きる気配は一切ない。

「詠実ちゃんはすごいよ。腐らずに大学を出て、薬剤師として日々働いてるんだもの」
「別に、特別なことは何もしてないけど」
「私は親の言うとおりに結婚して仕事辞めるしかできなかったから」
「…………」
「もっと仕事していたかったなあ…」

 そう言って果林ちゃんは缶チューハイをあおる。その一言に私は少なからず驚いた。従姉妹の結婚は、あの伯母の元で育って苦労した彼女が、ようやく掴んだ幸せだとばかり思っていた。私から見ればある程度順調のように見えた人生だった。兄も私も掴み得なかった人生だと。今の時代、誰しもが歩める道でもない。ただ、そう、それは誰しもが望む道でもないのだ。

「でも陽月がいるから」
「陽月ちゃん?」
「うん。陽月がいるから、強くいないとね」

 眠る陽月ちゃんを見つめる双眸は優しい。その中にも、こんな所で倒れるわけにはいかないという強さも垣間見える。離婚が成立したとは言え、これからの問題はまだ何も解決していない。だから果林ちゃんは、連日電話をしたり、何度もメールを気にしたりしている。これから住む場所、果林ちゃんの就職、陽月ちゃんの保育園、元旦那からの養育費の件、弁護士さんとのやりとり―――きっと本来は彼女一人で捌くには負担の大きいものばかりだ。実家を頼れない以上、全て一人で請け負うほかないのだけれど。

「果林ちゃんの方がすごいよ」
「ありがと、そう言われるとちょっと救われる」

 彼女と比べると、私には何もない。毎日仕事をして家に帰って来る、その繰り返しだ。時々夜更かしをして、音楽を聴きながら小説を読む。ただそれだけのことが、まるで悪い贅沢のように思えて来る。守るべきものもない、必要としてくれる人もいない、ただ無為に生きているかのようだ。

(それだって、私が選んだ生き方だけど……)

 できるだけ大事な人間は作らないように生きている。いつ何をなくしても、喪失感がないように生きている。兄が亡くなってから、それはより一層顕著になった。公私ともに親しくしている浜野さんにだって言えていないことは多いし、中学高校の同級生で今も連絡を取り合っている友人はいない。大学の同期ですら。
 例えば、明日突然私が死んだとしても、誰も困らないように生きて来た。誰にも迷惑をかけないように。けれど、果林ちゃんと陽月ちゃんが来てからそれが揺らいでしまっている。私が死んだら、二人は困ってしまう。行き場のない二人に迷惑がかかってしまう。私にとって、それも酷く恐ろしいことだった。ひっそりと生きて、いつかひっそりと死ぬつもりだった。
 私にはもう、誰かに迷惑をかける資格も、失って悲しむ資格も、何もない。兄を死に追いやったのは私かも知れないという可能性を拭い去れなくなってから、私は人と親しい関係を築くことに罪の意識を感じずにはいられないのだ。