第六話
「やだ!」
陽月ちゃんが、私にしがみついて離れない。
「こら陽月、詠実ちゃん困ってるでしょ!」
果林ちゃんも引き剥がそうとしてくれるが、もうすぐ六歳児の力は意外と強い。それなりに体重もある陽月ちゃんをここまで引きずって来るだけでも、インドア派の私には少々骨の折れる力仕事だった。
いつも出勤する時などはこんな風に離れないことはないのだが、先程からこうしてずっとぐずって離れてくれないのだ。
「詠実ちゃんだってお友達と約束があるんだから」
「やだ!」
「す、すぐ帰って来るから…」
「やだあ!」
うちに来てからずっとお利口だった陽月ちゃんが、ここまで我儘を言うのは初めてだ。お陰で、余計に私は戸惑っている。自分の子どもならともかく、人の子どもを力ずくで引き剥がすこともできず、強く叱りつけることもできない。しかし、もうマンションの下には浜野さんが来ているはず。あまり待たせると新幹線に間に合わなくなってしまう。
今日から二泊三日で、私は浜野さんと神戸へ旅行する予定だ。陽月ちゃんを起こさずそっと出て行こうとしていたのだが、うっかりキャリーを廊下で倒してしまい、その物音で陽月ちゃんが起きてしまった。大きな荷物を持って出て行こうとする私を見て、ものすごい勢いで私に激突して来た陽月ちゃんが、そのまま離れないというわけである。
「陽月…! ほら…! 離れなさい…!」
「やーだー! えーみちゃん陽月といるのぉー!」
「み、三日で帰って来るから、ね、陽月ちゃん」
「えーみちゃん、いなくなる、やだ!」
「いなくならないよぉ…!」
格闘していると、ピンポーン、とインターホンが鳴る。きっと浜野さんがおかしいと思って鳴らしてくれたのだろう。スプリングコートのポケットからスマートフォンを取り出すと、同時に浜野さんから電話がかかって来ている所だった。
「ごめん浜野さん、今、五歳児と闘ってる」
「まじかー! 手伝いに行きます?」
「いや多分、もうすぐ出られる、待ってて」
「あっは、子どもに好かれる藤倉さん貴重過ぎ。下で待ってまーす」
焦る様子もなく浜野さんは電話を切った。遅れたら新幹線を一本遅らせればいい程度に思っているのだろうが。だが、駅まで車を出してくれているのは浜野さんの兄である。待たせるのはあまりに申し訳ない。
「陽月ちゃん、ごめん、本当にそろそろ行かないと…」
「えーみちゃん…行っちゃうのやだ…」
「…………」
「あー…ごめん、詠実ちゃん……」
こうやって出て行ったんだよね、旦那も。そう果林ちゃんは言った。早朝に大きなキャリーに荷物をまとめて出て行った父親の姿と、旅行に出て行く私の姿が重なったらしい。とうとう泣き出す陽月ちゃんを、やはり私は引き剥がすことはできない。
腰を曲げてぽんぽん、と背中を叩く。陽月ちゃん、と呼び掛けても微動だにしない。足に巻き付いたままの小さい体を何度もゆすったり撫でたり優しく叩いても、それでも必死にしがみついている。
「…果林ちゃん、このバッグから本取り出してくれない?」
「本……これ?」
「それ」
床に置いたバッグから一冊の本を取り出す。時間があれば読もうと思っていた写真家・Mimi.の小さな写真集だった。風景写真と共に添えられた言葉が全て美しく、今回の旅行先である神戸が舞台になっていることから、持って行こうと思っていたのだ。お気に入りの一冊であるその本を、私は陽月ちゃんに差し出した。
「陽月ちゃん、これ、私のお気に入りの本」
「……えーみちゃんの、お気に入りの本…」
「えっと…私の大事な本だから、なくさないように持ってて欲しいなって…」
「…………」
「帰って来たら、どのページが好きだったか教えてね」
すると、ようやく陽月ちゃんは私の足から離れる。そして、差し出した本をおずおずと受け取った。涙でぐしゃぐしゃの顔で、本の表紙をじっと見つめる。お土産たくさん買ってくるね、と更に駄目押しの一言をかけると、そっと陽月ちゃんは私から離れた。まだ涙の止まらない目で、やや不服と言った様子も隠さず「いってらっしゃい…」と小さな声で言ってくれる。最後に数回頭を撫でてやる。
「えーみちゃん、ぜったい帰ってきてね」
「帰って来るよ。ここが私の家だから」
果林ちゃんも苦笑いして娘を抱き上げた。年長さんにもなるとそれなりの体重があり、ひょいっと、とはいかないものの、ぐずる陽月ちゃんの背中をぽんぽんと叩いてやっていた。そんな彼女にもいってきます、と告げてようやく私は部屋を出た。
マンションのエントランスでは、スマホを片手に持った浜野さんが待っていてくれた。平謝りするしかなかったが、「現場を動画に収めたかったですね」などとからかわれてしまった。マンション前では彼女の兄が車を停めて待ってくれていた。休日だというのに、運転手役を買ってくれたらしい。そのために浜野さんは神戸土産をしこたま要求されたようだが、私もお礼に何か神戸土産を見繕って来ようとは思っている。
コンコン、と浜野さんが青い車の窓を叩いて到着を告げると、お兄さんは車のロックを解除してくれた。後ろのトランクに私のキャリーケースも詰め込むと、浜野さんは助手席に、私は後部座席に乗った。後部座席だと車酔いをしてしまう浜野さんは、いつも助手席が指定席なのだ。
「藤倉さん、久し振り」
「おはようございます、よろしくお願いします」
「どうぞどうぞ」
「有砂の車じゃねーんだわ」
「藤倉さんがお客さんなのは私もお兄ちゃんも同じでしょ」
「でも有砂が言う台詞じゃねーんだわ」
これまでも二回ほど会ったことがあるが、そのいずれも私と浜野さんのコンサートホールへの送迎である。この兄妹の会話と言うのがまた絶妙で、まるでテレビでも見ているかのようだ。私も二人きりの兄妹だったが、兄はともかく私は口数が多い方ではなかったので、同じ兄妹でもこんなにも違うものかと出会った当初は戸惑った。私の兄のテンションが浜野さんに近いので、もし生きていて会うことがあれば、会話が絶えなかっただろうなと思う。
時々こうして、ふと兄が生きていたら、ともしもの考えをしてしまうのは私の悪い癖だ。どうしたって感傷的になってしまうのに、若くして亡くなった兄の“有り得たかも知れない未来”を想像してしまう。私の兄も車の免許を持っていたから、もしかすると兄が私と浜野さんの送迎をすることもあったかも知れない、とか、浜野さんが兄の運転する車の助手席に乗ることがあったのかも知れない、とか。
止まることのない二人の会話を聞きながら、兄と過ごした病室での日々を思い出す。最後の方はもう起き上がることもできず、一日の内で目を瞑って開かない時間の方が多かった。話しかけても叩いてみても起きなくて、ただ眠る兄の傍に椅子を置いて勉強をする毎日だった。
そんな経験がありながらよく薬剤師の道を辞めなかったね、と果林ちゃんに言われたことがある。病院で働くということは、兄と同じ病気の人たちに出会うこともあるからだ。
先日、まだ若い病棟看護師が一人、退職した。祖父の死から立ち直れなかったそうだ。休みの度に病院に通い、半年の療養の末に亡くなったのだと言う。彼女は、祖父と同じ病の患者を看護することがあまりに辛く、師長や主任は長期休暇や異動も提案したが、看護師を続けることはできない、と泣きながら病棟を去った。
私も、もし看護師だったら同じ境遇だったかも知れない。もちろん病棟で患者と接する機会はあるが、私の場合は常に患者の対応をしているわけではなく、一日の業務の割合を見ても薬剤科で薬を捌いていることの方が多い。だから、兄と同じ病気の患者がいても、薬剤師を辞めるほど追いつめられることはなかった。
それに、私の場合は辞めなかったのでない、辞めることができなかったのだ。経済的に自立しなければ、私はあの家に戻ることになってしまうから。その道を避けたくて、兄が亡くなってからも二年間、薬剤師になるための勉強を辞めなかった。
私に気を遣わず続ける兄妹の会話をBGMにしながら、外の景色を眺める。いつもは東京駅なんて電車で行くばかりなので、車で走る都内の景色は新鮮だ。車通勤をしているというだけあって運転もスムーズで、東京駅には迷うことなく辿り着いた。
「ありがとうございました」
「神戸、楽しんで来て。有砂は神戸牛忘れるなよ」
「わぁーかってるって!」
そう言って、東京駅のロータリーで車を降りると、浜野さんはわざとバタン、と強めに車のドアを閉めて運転手を睨んで見せる。
「…笑った方がいいよ」
「藤倉さん?」
「別れ際は、笑っていた方がいいよ」
「…………」
ついうっかり、小言が口から飛び出してしまった。しまった、と思わず口を押さえる。旅の出発前に嫌な空気にしてしまったかも知れない。むっとされることにひやひやして隣に立っている浜野さんを見ると、ぽかんとした表情でいた。それは思いもよらぬ表情だった。ごめん、と言おうとしたが、それより先に浜野さんが口を開く。
「それも、そうですね」
彼女は気を悪くした様子はなく、「お兄ちゃんいってきまーす!」といつものように元気に笑って手を振った。私も彼女に倣って手を振る。
「…気分、悪くしてない?」
「いや、悪くはしてないですけど、珍しいこと言うなーとは思いました」
「珍しい?」
「藤倉さん、あんまり人の素行にあれこれ言う人じゃないから」
「…………」
「ちょっとは私に興味持ってもらえました?」
いひひ、と誤魔化すように笑う浜野さん。その一言に、心臓を突かれる思いがした。
兄の死後、何かを喪失することが怖くて、誰にも迷惑をかけたくなくて、周りと一定の距離を保って来た。ずっと自分の心を守って生きて来た。けれどそれが、私の傍にいてくれている人に寂しい思いをさせていたかも知れないなんて、今初めて思い知ったのだ。
浜野さんは、ちょっと苦笑いだった。けれど一瞬でそんな表情を消して、新幹線遅れますよ、と私を先導する。二人分のキャリーケースの音が連なる。
私の心臓は、まだどくんどくんと変な鼓動を続けていた。