第七話
当直明けで遠征となった浜野さんは、新幹線の座席に座ってものの数秒で寝た。それはもう、おもちゃのスイッチでも切ったかのように。彼女の兄の車中で延々喋り続けていたのが嘘のようだ。当院の薬剤師の当直はさほどハードではないとはいえ、やはり院内待機は気も遣うし細々とした仕事も多い。緊急入院があればまた新たに薬を捌かなければならず、忙しさはその日に、いや、その夜によりけりともいえる。
東京駅を出発し、横浜まで来たところで私も眠気に襲われ、眠りに落ちた。なんだかんだ、今日の神戸旅行にそわそわして昨日は眠りが浅かったのである。
今回の旅行の最大の目的は、城春輝と瀬名はすみのコンサートだ。泊まりで職場の後輩と一緒というのは初めてで緊張して眠れなかった。神戸自体はもう何度もコンサートで訪れているが、後輩との観光付きとなるとまた別だ。
新幹線で二時間半ほど、ぐっすりと眠ったお陰で新神戸に着く頃には頭がすっきりしていた。寝起きが悪いのか、浜野さんは大分ぼんやりした顔をしているが。
「ホテルこっちだよ」
「藤倉先輩について行きまーす……」
「ほら、荷物持ってあげるから」
「それぁ大丈夫ですよ」
大丈夫そうに見えない。なんとか三宮に取ったビジネスホテルまで到着したが、まだ浜野さんの顔は目覚め切っていない。ホテルに荷物だけ置いてお茶でもする予定だったが、インターネットカフェかどこかで仮眠していた方がいいのではないだろうか。
そうひやひやしていたのだが、幸運なことにもう部屋が用意できているとのことで、部屋に入ることができた。チェックイン予定は十七時にしていたのだが、まだ十五時を過ぎたところだ。
「浜野さん、ちょっと寝なよ。新幹線じゃ寝た気にならないでしょ」
「いいですかあー……」
「今ちょっと仮眠して、夜一緒にご飯行こう。もしくは何か、テイクアウトして来てあげる」
「藤倉さん優しい……じゃあ神戸牛バーガーテイクアウトで」
「了解。夜には戻るから、電話には出てね」
あい、と返事をして、浜野さんはベッドに倒れ込んだ。
正直、ずっと二人一緒付きっ切りにならなくて良かったとも思う。もう随分一人暮らしが長く、友人も少ない私は、二泊三日の間、べったりだときっと疲れてしまう。いくらよく知った後輩の浜野さんとはいえ。
大きなキャリーケースを置いて軽装になった私は、さっそく神戸の街に繰り出した。どこか横浜の街と似たところもある神戸。海に面していて港があるところ。坂道が多いところ。おしゃれなお店が多いところ。美味しいものが多いところ。異人館の街並みもそう。これだけ坂道が多ければ、浜野さんを連れ回すのは酷だっただろう。
特に北野には行きたいお店がいくつかあったが、今日は時間が時間なだけに、ゆっくりと回れそうにはない。一番の目当てのチョコレートだけ買いに行くことにした。恐らく、お腹を空かせているであろう浜野さんに、リクエストされた夕ご飯を買って行ってあげなければならない。
北野からの帰り道で、よさげなお店を見つけた。浜野さんリクエストの神戸牛バーガーのお店だ。テイクアウトもやっているらしい。百パーセント神戸牛を使ったハンバーグのパティ、お店のオリジナルソースがたっぷりとかけられており、その分厚さは顎が外れそうだ。
浜野さんは細身ですらりとしているが、実は結構、食べる。一緒にご飯に行くとびっくりするが、あの細身で結構な量を食べる。特にお肉が好きなので、彼女との食事は専ら肉料理が多い。そんな浜野さんも、このハンバーガーなら満足してくれるだろう。
さすが神戸牛を使用しているだけあって安くはないお値段だが、現地のグルメも旅の醍醐味だ。二人分のハンバーガーを購入し、冷める前にとホテルへ急いだ。
「藤倉さん女神、天才」
ホテルに戻り、私を部屋で出迎えてくれた浜野さんは真っ先にそう言った。続けて、私が手に持っている袋を見て更に目を輝かせる。早く食べよう、と入室を急かす。私が手を洗っている間に、浜野さんは袋を開けて部屋についている小さなテーブルにハンバーガーを並べてくれていた。
「これ、これですよ、神戸牛バーガー! 長旅でダメージを食らった五臓六腑に既に香りが染み渡ります」
「それはよかった」
「食べていいですか」
「もちろん」
浜野さんはいつも美味しそうに食べる。なんでも美味しそうに食べるのだ。こうして外食をする時も、仕事中におやつをつまみ食いする時も、食堂の昼食だって。こうして素直に感情表現できる浜野さんは、見ていて爽快だし、少し羨ましいとも思う。同じ二人兄妹の妹なのに、やっぱり性質と言うのは三者三様なのだ。
「美味しかったあ…。藤倉さん、これいくらでした?」
「いいよ、これくらい」
「藤倉さんいつもそう言う! 明日のランチは私が払いますからね!」
やはり仮眠が効いたのか、すっかりいつもの浜野さんの元気が戻っている。加えて、神戸牛バーガーがお気に召したようで満足そうだ。
常々、どうしてこの子は私とつるんでいるのだろうと疑問に思う。共通した趣味なんて瀬名はすみ・城春輝くらいで、普段のテンションもこんなにも違う。どうやら浜野さんは多趣味で、音楽以外にも色々やっているらしいが、私には残りの趣味と言えば読書くらいしかない。休日あまり外に出ない私に比べ、浜野さんはよく出歩いているらしい。食の好みは、被っているところもあるけれど。
夕食を食べ終えて満足げな浜野さんをじっと見つめていると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「なんか、ソースでもついてます?」
「ううん、ついてない」
「えっ、じゃあ寝ぐせ?」
「それも大丈夫」
不思議だ、こうして浜野さんと神戸にいることが。
「…浜野さんはさ」
「はい?」
「いつも私といて楽しい?」
「なんですか、いきなり」
眉をひそめて私を見る。やはり、おかしなことを聞いてしまったらしい。子どもでもないのに、そんな、何かを確認するような質問なんて。
「楽しくなかったら旅行なんてしないと思いますけど」
「それは、そうだよね」
「んー、でもそうですね、藤倉さんが聞いてるのってそういうことじゃないですよね」
「あー…いや、いいの、ごめん忘れて」
「忘れませんて。うーん…そうだなあ……私が新人の頃、窓口でクレーマーに絡まれてたの覚えてます?」
まだ浜野さんが入職して数か月で院内処方窓口にいた頃のことだろう。薬局で調剤業務をしていたら、窓口から怒鳴り声が聞こえて来たのだ。相手は、院内でも有名な悪質な患者だった。薬剤師も、検査技師も、看護師も、様々な部署の女性職員が嫌な目に遭って来た。それでも上はなかなか取り合ってくれず、外来で受け入れを続けていたかなり要注意な患者だった。入院した際には病棟の看護師に暴力行為やセクハラ行為があったとも聞く。
新人の浜野さんも、その被害に遭っていた。だが、当時からはっきりと物を言う浜野さんは、その問題患者のセクハラ発言にも毅然とした態度で対応し、逆上されたのだ。院内処方窓口のカウンターを乗り越えん勢いで浜野さんを殴った患者は、その一件でとうとうブラックリスト入りし、入院外来共に受け入れ不可となった。浜野さんという犠牲が出て、ようやく、ようやくだった。
「あの時、真っ先に駆けつけてくれて、私を助けてくれたのが藤倉さんでした」
「…そうだったっけ」
「受付窓口からも丸見えなのに、男性職員すら助けてくれなくて、警備員だってぼーっと見て立ってるだけ。藤倉さんだけが私を庇って、目の前で一一〇番通報してくれたんです」
「あー…そんなことも、あったね……」
「あの時、藤倉さんが助けてくれなかったらあの日で病院辞めてます」
一一〇番通報したことも適切だったのかどうか、院内会議に掛けられそうになった。そこはなんとか薬剤部の部長が掛け合ってくれたらしいが、かねてより問題患者への対応の甘さに不満を抱いていた身としては、院内会議にかけられたらそれこそ私の方が退職するつもりだった。あの一件を浜野さんがそんなにも重く受け止めてくれていたことは初耳で、私も何も言えなくなってしまう。あわよくば辞めてもいいつもりだったなんて。
「だから私、藤倉さんが好きなんですよね」
浜野さんよりも食べるのが遅い私は、ようやく最後の一口をもそもそと食べ終える。
あの問題患者の一件は何度思い出しても胸糞悪い。忘れてしまいたいような事件だけれど、浜野さんにとってはそれと共に、職場に必ず味方がいると確信できた事件だったのだ。新人の内は特に、そういう存在は有り難い。うちの薬剤科はぎすぎすしているわけではないけれど、そうでなくても新人の間は先輩よりも神経を使うし気も張る。ちょっとしたことが原因で心だって折れてしまう。貴重な後輩を失わずに済んだのなら、私もあの時、割って入った甲斐があったというもの。
「浜野さんが後輩で良かったよ」
「やだー! 先輩と相思相愛じゃーん!」
わざとらしく大げさに「きゃー!」と言ってけらけら笑う。つられて私も笑った。
こんなことでもなければ、聞けなかったと思う。私といて楽しい、なんて。今日、神戸に来たのが浜野さんと一緒で良かった。