その手首の細いこと
東有理には、行原女史も含めて三人で会うことになった。数回のやり取りしかしていないが、行原女史も同席することは快諾してくれたのだ。流石に彼女ほど顔の知れた人物と外で会う訳には行かず、私と行原女史が彼女の自宅にお邪魔することになった。
そんな東有理の名前を、私も知らない訳ではない。若者に人気のミュージシャンで、街中やテレビで彼女の歌を聴くことは日常的にある。ただ、代表曲は知っているものの、その人となりを詳しくは知らなかったし、まさか並木夏海と長年の友人だったということも勿論知らなかった。スマートフォンで東有理の名前を検索をしてみれば、一番上に出て来るのは彼女の公式ホームページ。更にそれを開くと、我々作家で言う著者近影ならぬ、アーティスト写真が画面いっぱいに出て来た。黒いドレスを着て俯いている女性と、その手に持つ鮮やかな赤のガーベラのコントラストは、不気味さすら覗わせる。
プロフィールにも同じ衣装の彼女の写真が出て来たが、伏し目がちな表情は虚ろだ。彼女の音楽性を思えば納得だし、あの冷静な手紙の文章も腑に落ちた。
決して陽気になれるような曲を歌うミュージシャンではない東有理自身のテレビ露出は極端に少ないものの、顔出しすらしないミュージシャンの増えた昨今、決して浮いた存在ではない。それでも彼女をここまで押し上げたのは―――同年代随一のメロディーメーカーと呼ばれる所以は、国立音大卒という経歴の持つ確かな技術、知識、センスがあるからだろう。…と、音楽系のニュースサイトにはまとめられている。会う前に最低限の相手の情報は入れておかなければと、東有理のことはさらっと調べた。音楽に詳しいわけではない私は、こうしてネット情報に助けられたというわけだ。
「東有理は私も聞きますよ。声が良いんです、声が。あと詞も」
「行原女史って小説以外に興味あったんですね」
「あらゆるジャンルに興味を持たなければいけませんからね」
並木夏海とは同じ神戸の出身で、高校も大学も同じだったらしい。並木夏海もまた、国立音大卒の小説家と言う珍しい経歴の持ち主だったことはよく覚えている。何がきっかけで音楽の道を諦めたのかは終ぞ本人から聞いたことはなかった。並木夏海のように同世代の共感を呼ぶ作家であれば、その辺りの経験を元に何か一つくらい話を残していてもいいものだが、音楽に関する小説は一本も書いていない。何か触れられたくないものがあるのだろうな、と察せざるを得ない。
目的地までは行原女史がプライベートの車を運転してくれている。平日昼間でもそこそこ車通りのある都内もさすが慣れたもので、その運転には一つの危なさも迷いもない。微かなBGM程度に流しているカーオーディオのラジオからは、噂をすればなんとやらとでも言うように、正に東有理の曲が流れて来た。確かに、声が良い。まっすぐに伸びる中音域、深い低音、やや苦しそうに聴こえる高音域のファルセット―――所謂、これが泣かせる歌声というものなのだろう。
「ここですね」
「ほう……」
あれだけ売れていればさぞや立派な好立地マンションにでもお住まいなのだろうと偏見を持っていたが、意外と普通のマンションだった。場所もギリギリ二十三区を出るか出ないかと言った所である。
車を降りてエントランスへ向かう。自動ドアが開いて電子ロックに迎えられる。聞いていた部屋番号を押せば、すぐに「はい、どうぞ」と先程までラジオで聞いていたミュージシャンの声がスピーカーから聞こえた。前言撤回、普通のマンションとは言ったが、いざ門をくぐればなかなか立派なマンションだ。二十四時間コンシェルジュ滞在というやつだ。
お互い徐々に口数が減り、オートロックの扉の内側に入ってからは、全くの無言のまま東有理の部屋の前に到着した。これから楽しい話をしようと言うわけでもないため、自然と空気が重くなってしまうのは仕方ないが、私よりも行原女史の方が緊張しているように思える。さては、思ったよりも彼女のファンか。
最後の砦である部屋のインターホンを押すと、軽い足音が近付いて来て、いよいよ扉が開いた。
「こんにちは、お待ちしていました」
ホームページで見た東有理とはまるで別人だ。朗らかに笑む顔が出迎えてくれた。ドアノブを握るその手首の細いこと。くっきりと浮き出た手関節の骨や、Vネックのカットソーから覗く鎖骨のラインが、いかに痩せているかを物語っている。
「仁科晶穂です、お邪魔します」
「そちらが、行原楓さん?」
「お、恐れ多くも」
「……女史…」
ファンだな―――私は確信した。だからついて来たとは思いたくないが、多少の下心はありそうな気がして来た。
部屋の中に通されて、リビングの手前で私は思わず固まった。部屋の隅には引っ越し業者の名前の入った段ボールが積まれている。もう残りは、壁際に鎮座している大きな電子ピアノと、部屋の真ん中に不自然に設置されているソファとテーブルだけのようにも見える。
「散らかっていてごめんなさい、もうすぐ引っ越しするんです」
「いえ、それは…そうですか……」
「それと一緒に、やめるんです」
「やめる?」
「ミュージシャンをやめるんです」
「えっ!」
もちろん、声を上げたのは私ではない。だが、私も驚いたことに変わりはなかった。そのようなゴシップ記事の一つも出ていないのだ。大手芸能事務所のアイドルでもないから取りざたされないのかも知れないが、これほど売れているミュージシャンなら話題になりそうなものでもある。引っ越しと共に、ということであれば、そう遠くはない未来なのだろう。
促されるままに行原女史と並んでソファに座ると、東有理はお茶を淹れにキッチンに立った。心配になり隣をちらりと見ると、普段はポーカーフェイスを崩さない担当が、この世の終わりのような顔をしている。やはり相当なファンだったらしい。なぜ“聴いたことくらいならありますよ”風を装っていたのだろう。
東有理がこの世代随一のメロディーメーカーと呼ばれるのであれば、並木夏海はこの世代屈指の表現力を誇っていた。日本の音楽界と文学界は惜しい人材をふたりもなくすことになるのだな、と他人事のように思った。並木夏海に関しては私も大きなショックを受けたけれど、それが私の作風や作家人生に何か影響を与えたかと言われればそんなことはない。彼女がいなければ私の小説が評価されるかと言われれば、そういう訳でもない。ただ、お手本と思っていた作家の新作がもう二度と読めないと思うと、途方に暮れるような気分にはなった。けれどそれは、作家としてよりも、いち読者としての感情に近い。
キッチンから戻って来た東有理の持つトレーには、まだ湯気の立つ紅茶のカップが三つ乗っている。それぞれの前に置かれると、しんとした空気の中で私は耐えきれず、真っ先に紅茶に手を伸ばした。
「…いただきます」
「どうぞ。…行原さんも」
「は、はい」
「すみません、行原女史がどうやら東さんの大ファンみたいで」
「ちが…!……わない、です…」
すると、東有理は至極嬉しそうに笑った。こんな風に笑う人なんだ、と虚を突かれた。あの曲のイメージや、ホームページの写真からは、やはり本人が結びつかない。
「とりあえず女史のことは置いておいて、本題に入りたいのですが」
「そうですね」
そうして、今度は私に視線を向ける。長い黒髪を一つに縛っているしか、その首の細さがいやに目立つ。ともすれば、ぽきりと折れてしまいそうだ。元々こうなのか、親友の突然の死により痩せたのか。
東有理もカップに手を伸ばし、紅茶を口に含む。飲み下す喉の動きすらはっきりと見える。…そんな私の観察するような視線が居心地悪かったらしく、彼女は苦笑いをし、行原女史には肘で小突かれた。以前も指摘されたことがあるが、こうしてどうしても初対面の相手をじっと観てしまうのは、私の悪い癖だ。すみません、と簡単な謝罪を口にした。幸い、東有理が気を悪くした様子はない。
「どこまで調べられました?私や夏海のこと」
「一般的な所までとしか…」
「じゃあ、私と夏海が音大卒だということはご存知ですね」
「ええ」
ふと、彼女の表情が翳る。思い出しているのは、どの並木夏海の姿なのだろうか。高校、大学、卒業してから、最後に会った時―――一体どこに思いを巡らせているのだろう。“私が殺した”と言うからには、彼女には心当たりがあるはずなのだ。しかし、事故や病気ではないと断言してしまうほどの何かが、闇の中にしまい込まれるはずだった真相が、本当に目の前の女性の中にあると言うのだろうか。
ゆっくりと瞬きをし、開いたかと思えば、窓の外に視線を巡らせ、目を細めた。
「音楽をやりたかったのは、本当は夏海なんです」
「え……?」
「私は、ここまで来るつもりはなかった」
深い後悔を含んだ声色で、東有理は告白する。音楽科の有名な高校に入学し、かの国立音大へ進んだ二人。並大抵の努力では為せないことを為し、けれど彼女は自責の念すら感じさせる。背景を測りかねて、相槌すら打てない。
「ミュージシャンになりたかった夏海も、作家として成功した夏海も、殺したのは私です」
そう言って席を立つと、彼女は後ろにあった電子ピアノの椅子に置かれた大きな茶封筒を手に取る。そしてそれを私に差し出した。受け取るとずしりと重みがある。この、手で持った時の不安定さと質感は私もよく知っている。A4用紙―――察するに、原稿だ。目で促されて中身を取り出すと、予想通り何かの原稿らしい。その出だし数行で確信した。これは、並木夏海の原稿だ。彼女の作品を全て読んでいる私には分かる、これが未公開原稿だと言うことも。
「私が、二回夏海を殺したんです」
やっぱりここじゃ駄目ですね、と涙声で言うと、東有理は私に背中を向ける。
「東さん」
「はい」
「ちょっと、遠くへ行きましょう」
ただの思いつきだ。今日は偶然行原女史が一緒で、車と言う足がある。まだ午前中で時間もたっぷりある。部屋の中と言う閉塞感のある場所では、きっと息が詰まってしまう。海へ行きませんか、という私の提案に、鼻をすすりながら東有理は頷いた。行原女史も異を唱えることはなかった。