三度、彼女を



 都内から車を走らせ一時間少し、目的地は見えてきた。まだ海開きのされていないオフシーズンの海に、人はほとんどいない。私たちのような変わり者のグループがちらほらいるが、いずれも海に近づきもしていなかった。
 車中で、東有理は私に様々な質問をして来た。作家稼業についてが主だったが、並木夏海との関係性や、二人でどんな話をしたのかなども訊かれた。
 また、意外にもと言えばいいのか、彼女は私の作品にも触れていた。一般的にはあまり評価を得られなかった『2LDK』という、三年ほど前に書いた小説が、彼女のお気に入りだという。2LDKに住むことを夢見る、ワンルームに住む女の話だった。並木夏海の劣化版だ、二番煎じだと散々酷評されたあの作品が、並木夏海の親友のお気に入りだというのは、あまりにも皮肉な気がした。
 太陽が最も高く上る頃、海は至って穏やかだ。適当に砂浜に腰を下ろした。行原女史は私と東有理の少し後ろに構えている。飽くまで東有理は私に話をしたいのだという気持ちを尊重しているのだろう。
 波の音の他に、時々人の笑い声が遠くに聞こえる。ここには沈黙が流れていて、別に気まずさはなかったが、私はなんとなく口を開いた。

「話しにくいですよね」
「ああ、いえ、何から話そうかって思って…」
「じゃあ率直ですけど、なんで東さんが夏海さんを殺したって思うのか……心当たりでもあるんですか?」
「…私と夏海、同じマンションの階違いに住んでいるんです」

 そこから、ぽつりぽつりと語り出す。その横顔は、どこか遠くに向けられている。揺れる睫毛に縁取られた瞼は時々伏せられ、眼裏に並木夏海を思い描いていることは想像に固くない。
 彼女の口から最初に語られたのは、決して公にされなかった並木夏海の最後だ。 彼女の遺体が発見されたのは、彼女の自室だった。東有理は自身のライブツアーで長く家を空けており、親友の死が知らされたのはツアー終了の翌々日―――東京に戻って来た日の夜だった。遺体発見日は東有理が東京に戻る日の昼間で、死亡推定日はその前日とされている。
 言葉にこそしなかったが、ツアーが終わりまっすぐ帰らなかったことを後悔、いや、自責しているように見えた。

「私は、夏海から色んなものを奪って来ました。ミュージシャンになる夢も、その一つです」
「色んなもの……」
「夏海は、行こうと思えばどこへでも行ける人間です。それくらい行動力もパワーもある女性だった。海外の音楽院への推薦ももらっていたけれど、私のためにそれを蹴った―――私は、海外推薦をもらえませんでしたから」

 夏海の優しさに甘え過ぎた、と東有理は語る。だからこそ、自立しなければと思った矢先だった。ここからは自分に尽くさず並木夏海のために生きて欲しいと伝えたのだという。その話もそこそこに、並木夏海は亡くなった。そして、残された最後の短編小説の出だしがこうだ。

「“私の世界一憎い人は、世界一愛した人だった”……」
「ぎくりとしました。あの短編に出て来るあらゆるエピソードに心当たりがあり過ぎて、こんなにも私は憎まれていたんだって」

 持ち出した原稿を、再び読み返す。初稿なのだろうが、並木夏海の作品にしてはあまりに雑な完成度だ。どこかに出すことを想定して作られていないかのような。書き殴った、という表現がぴたりと当てはまる気がした。
 並木夏海の作品には、基本的に二人の人間がメインとして存在する。多くの作品で、その双方の視点が描かれていることも特徴の一つだった。一貫して片方の視点だけでなく、必ず二人が存在する。私と、私以外の誰か―――その世界観は、並木夏海が人間は一人では生きていけないこと、一人では世界は構成されないということを最も大切な軸として置いていることに他ならなかった。作品だけでなく、彼女の私生活もそうだったのだ。恋人、姉妹、親子、親友、あらゆる“二人の物語”を紡いで来た並木夏海は、そのいずれにも自身と東有理を重ねていたのだろうか。
 だとすれば、ますます遺稿には違和感だけが残る。死の間際、憎い恋人への恨みごとを半ば独白のような形で語り続ける主人公は、どうしても並木夏海とは繋がらない。

「音楽家になりたかった並木夏海を殺し、今度は作家の並木夏海を殺した。最後に、東有理の親友の並木夏海も殺したのかも知れませんね」
「…………」
「そうなると、私は三度、彼女を殺した」

 まるで、罰されることを望んでいるような口ぶりで、彼女はそう言う。
 私の知る並木夏海は、明るい人物である。私の話にけらけらと笑うし、好奇心も旺盛で、意外とミーハー。他の交友関係の話は聞いたことはなかったが、あまり暗い話は聞いたことがなかった。それもまた、私の知る並木夏海のたった一側面なのだろう。そこまで何もかもを尽くすほどの親友がいるだなんて、他の誰が知っていたのだろう。将来を投げ打ってでも傍にいたいと思うような親友の存在は、過去どんなインタビューでも聞いたことがなかったと思う。音楽家の道を絶った経緯を明かさなかったのも、東有理の存在があったからなのだろうか。彼女が自分を責めないようにと、明らかにしなかったのだろうか。そうなると、ますます遺稿の真意が謎である。しかも、簡単に見つかるような場所に保管していただなんて。
 並木夏海は本当に、東有理を恨みながら死んでいったのだろうか。

(それは……それではあまりにお粗末なエンディングだわ)

 世代屈指の作家、並木夏海の脚本とは思えない。彼女の描く人間は、もっと緻密で複雑だ。妬みだけで、羨みだけで構成されることなんて、初期作品にすらなかった。
 同じ作家として、彼女の作品を愛した人間として、ひとつだけ確信を持った。東有理の言うことが全てではないと。きっとあの遺稿にも何か裏がある。ただ、明確でない今、それを彼女に伝えるべきではないし、何かが明らかになったとして、それを彼女に伝えることが最善だとは限らない。今ですらこうして突き落とされている彼女が、ますます闇を見ることになるかも知れないのだ。
 だから、ここから先に彼女は干渉させない。自責の念に駆られてこれからを生きて行く方がましだと思える真実が、きっと隠れている気がする。並木夏海も東有理に全てを明かそうとは思っていなかっただろうが、どこまでが並木夏海のシナリオだったのか、一人くらいは知る人間がいてもいいだろう。

「東さん、この件は私に任せてくれませんか」

 詳細を公にされず消えた一人の女性の足跡を、私は辿ろう。