明かすべきではない秘密
後日、私は恵比寿のとあるバーの前にいた。アポは取った、後ろめたいことは何も無いのだが、今回は行原女史がおらず私一人ということが、緊張を加速させた。
東有理に紹介されたその店は、二人が―――特に並木夏海がよく通っていた店だと言う。音楽の生演奏が聴けると言うこのお店は、立地を見ても店構えを見ても“お高い”お店であることは明白だ。
店長はお店のオープン前であれば時間を取ってくれると言うので、私は並木夏海の話を聞くべく訪れていた。
「こんにちはー…」
「あら、遅かったじゃない!迷ってるんじゃ無いかって探しに行こうと思ったのよォ!」
独特のファルセットを効かせた声で、彼女は私を出迎えてくれた。電話をかけた際には少々気難しいのだろうかと危惧したが、あれはタイミングが悪かったのだろう。高身長から繰り出されるハスキーボイスのお陰で威圧感はあるものの、彼女の様子に拒否的な所は少しもない。
挨拶もそこそこにお店のカウンター席に通される。何か飲むでしょ、との声掛けに、ジンジャーエールで、と答えたのは、何もお酒に弱いからではない。お酒を飲みながらする話では無いからだ。それを察した店長も、不思議そうな素振りを一切見せることなく、慣れた手つきでグラスに注文したソフトドリンクを注いで行く。
「最初に約束して欲しいんだけど」
小さく乾杯をした後、店長は私に釘を刺した。
「今日話すことは、東の耳には絶対に入れないこと」
「はい」
「東も並木も学生の頃からよく知っているけど、私にとっては二人とも大切な子たちなのよ」
その忠告で、既に私は事の重さを察した。やはり、東有理に明かすべきではない秘密を、並木夏海は持っていたのだ。
重く長い溜め息をつき、店長はカウンターに凭れる。明るい金色に染められた巻き髪が、彼女の背中で揺れる。女性にしてはやや広いその背中には、先程までの毅然とした口調からは考えられない憔悴の色が滲んだ。
「世の中には自分の意思ではなかなか、どうにも出来ない事ってあるでしょう」
「え、ええ」
「例えば、私が今から160cmに縮もうとしたってできないわ。多分、並木と東もそういう類の話なのよ」
「ええ、と……」
言葉を選ぶように、ゆっくりとした口調で彼女は語り始める。私に背を向けたその先の両眼には、渦中の二人が映っているのだろう。その姿は、並木夏海を語る東有理のそれと似ている気がした。故人―――いや、東有理は故人ではないが―――を思い描く時、誰しも同じような感傷を抱くのだろうか。
「アナタ、東の曲を聴いたことあるわね」
「少しは…」
「何か気付かなかった?」
「何か……?」
何か、と、そんなざっくり聞かれても。内心そう反論しつつ、口にできるような空気ではない。私は黙って次の言葉を待った。
「あの子は音楽にフィクションを書かない。だから、恋愛の曲を書かなかった…いや、書けなかった」
「は……?」
「東はね、恋愛感情を一切持ち合わせていない子なの」
私も腐っても物書きだ。あらゆる話題について調べる性質はあって、恋愛嗜好についても勿論調べたことはある。だから、極稀にそういう人がいると言うことは知識としてはあった。ただ、私の周りには今現在はいない。いや、いたとしても言っていないだけか。
確かに、行原女史に勧められて聴いた膨大な数の曲のそのどれにも、恋愛がテーマの音楽は一切なかったように思う。音楽と小説、分野は違うが、その作風は東有理と並木夏海では真逆のような気がした。
「ただその一点を除けば、当時からどこにでもいる音大生だったわよ。だから、そうね、並木は安心していたんでしょうね」
安心、その単語を心の中で静かに反芻する。飲み下したジンジャーエールのヒリヒリした痛みが食道を駆け抜けて行く。その刺激だけではない、彼女から紡がれる次の言葉にある種の予感がして、心拍数が一際速くなった。並木夏海と東有理の子どもの頃からのエピソードがダイジェストのように脳内を巡る。なかなか核を突かない店長の話とそれらを照らし合わせると、次に出る話は想像に難くなかった。
「恋愛さえできなければ、東が他の誰かのものになんてならないってね」
「まさか、夏海さん」
「皮肉なものでしょう。並木が愛したのは同じ愛では返してくれない相手だったのよ」
私の世界一憎い人は、世界一愛した人だった―――あの、並木夏海の遺稿の書き出しは、あの言葉のままの解釈で良かったのだ。何の捻りもない、何の伏線でもない、何も勘繰らなく良かった。難しく考えず、額面通り受け取れば良かっただけなのだ。あれは、東有理への恨みつらみなどではない。
ありがとうございました、と告げて私はグラスをカウンターに置く。店長は、振り返らないまま「今度は普通に来なさいよ」と言ってくれた。
頭を下げて店を出て、ドアに凭れながら長く息を吐き出す。ここに入る前はまだ明るかったのに、もう薄暗くなり始めている。その様子は、この辺りのお店の開店時間が近付いていることを私に知らせているようだ。
恋愛感情と言うものがなければ、東有理が並木夏海の気持ちにも気付くはずがない。不毛な恋愛の話はたくさん読んで来たし、見て来た。その中でも一際、やりきれなさを感じた。あれだけ二人の人間をテーマにした話をたくさん書いて来た並木夏海が、誰よりも心を砕いた相手と対になれなかったなど、なんという皮肉だろう、残酷さだろう。今はもう確かめようもないが、彼女が東有理と過ごした時間にどんなことを思っていたか、それを想像するだけで心臓が握り締められたような感覚になる。東有理は、もうすぐ結婚するという。