咲いた場所



 小説家として、様々な土地に足を運ぶことがある。取材、勉強、参考資料として。しかし私は、音楽を題材に小説を書いたことのなかった、そしてこれからも書くとは思えない小説家、仁科晶穂だ。音楽大学なんていう縁のなかったキャンパスで、思わずきょろきょろと辺りを見回してしまう。自分の通った大学とは違い、どの棟も白く眩しい。
 並木夏海の通ったバー、並木夏海の友人、その次に訪れたのは、並木夏海と東有理の母校、国立音大だった。著名な音楽人を多く輩出している、日本でもトップレベルの音楽大学だ。クラシックのみならず、現代音楽を扱う学科も近年新設されている。そのせいか、学内を歩く学生たちは、所謂世間のイメージする音大生と、普通の大学生のようなタイプの二種類が混在しているようだ。
 私が歩いていても浮かなかったのもそのお陰だろうが、おのぼりさんのように周囲を見回していては挙動不審そのもの。バッグからスマートフォンを取り出し、事前に伝えられていた練習室のあるという棟へ急いだ。



 並木夏海、東有理、二人の母校を訪れることを勧めてくれたのは、先日会った瀬名はすみだった。並木夏海は卒業後も恩師とよく連絡を取っていたらしく、会えばきっと何か話を聞けるはずだと教えてくれた。

むら先生ですね。今も同じ音大で講師をされているそうですよ。私で良ければ繋ぎます」
「いいんですか」
「もちろんです。私も何度かお会いしたことありますし」

 瀬名はすみは親切な人だった。個人的に連絡先も交換し、時々お話ししましょう、と言ってくれた。同世代で、決して現代日本ではスタンダードな生き方をしているとは言えない私たち。この日一回で縁が切れてしまうのは、私も惜しい気がしていた。
 並木夏海と瀬名はすみ、そして私と、もっと早くに三人で出会えていたなら良かったのに。だからと言って、並木夏海の亡くなるという事実が変わる訳ではないだろうが、私たち三人はきっと良い友人同士になれていたと思う。ぎり、と唇を嚙んだ。悔しい、という感情が沸いて、今も心臓の底に留まっているようだ。

「晶穂さん、あなたが本当はどういう目的で動いているのかは分かりません。けれど、なっちゃんを生かしてくれる人が自分以外にもいるのは嬉しいです」
「私は、そんな大層なことは……」
「全て回り終えた後、また私と会って下さい。何もかもを明かす必要はありませんから」

 瀬名はすみほど親しい人物でも、並木夏海の死の真相は聞かされていない。本当は彼女が自身で関係者を当たりたい所だろうが、そうは行かない。ピアニスト瀬名はすみは多忙な人物だ。今も相方の城春輝と共に全国ツアーの真っ最中である。コンサートだけではなく、楽曲制作にレコーディング、レギュラーのラジオ出演など、常に仕事は絶えない。
 だから、私に託すしかない。それなのに全てを話さなくて良いと言った。本当は、瀬名はすみや東有理のように非常に親しい友人という訳ではなかった私が、並木夏海の周囲を嗅ぎ回るような真似はしない方が良いのかも知れない。彼女も著名人の一人とはいえ、故人のプライバシーに関わる所だ。他人に知られたくなかったことだってあるだろう。
 それでも、東有理や瀬名はすみのように、残された人間を思うとあまりにもやり切れない。近いからこそ抱えきれない何かを、少し遠い私が消化させることができれば、悲しみを希釈することくらいはできるのではないか。最初は東有理だけを背負っていたつもりだったのに、結局は瀬名はすみも切り離せなくなってしまった。



「懐かしいですね、並木さん。僕は、彼女がプロのピアニストになると信じて疑わなかった」

 羽村先生は、穏やかな笑みを浮かべながらそう語る。白髪交じりの頭ながら、顔はそれよりも若々しい印象だ。並木夏海が学生の頃は大変厳しい先生だったということだが、今の様子を窺うに、俄かには信じがたい。年を重ねて穏やかになったタイプの人物かも知れない。
 学生の個人レッスンの合間なら、ということで招いてもらったのは、小さなレッスン室の並ぶ練習棟だった。ずらりと並ぶその小部屋は、小窓を覗くと様々な楽器を練習している学生が中にいる。個人レッスンを受けている学生もいれば、自主練習中の学生もいるようだ。並木夏海も東有理も、ここで大学の四年間を過ごしたのだという。

「東さんは、そうですね、成績だけで言うと確かに並木さんを超えることはなかった。まさか東さんがプロのミュージシャンになるとも思いませんでしたよ」
「歌の授業も取られていたんですか?」
「どうだったかな…よく並木さんと二人で遊んで歌っている所は見ましたが、授業として取っている様子はありませんでしたね」

 練習室Cと書かれた部屋の前で立ち止まって、その部屋のドアを開ける。部屋の中にはグランドピアノが一台設置されおり、そこそこ広い練習室だった。羽村先生が窓を開けると、カーテンが舞って緑の香りのする風が入って来る。学内は緑も多く植えられており、四季を肌で感じられる。どうぞ、と勧められた椅子に座ると、羽村先生もピアノの椅子に座った。
 羽村先生は、並木夏海が師事した人物だったが、東有理はそうではなかったという。それでも未だ印象に残っているのは、常に二人が一緒だったからだという。授業も、昼休みも、授業終わりも、並木夏海を見かければ東有理が隣にいたのだと、羽村先生は話す。

「そもそも、二人ともこの道でやって行くことを最初から考えていなかったんでしょうね。自主練習でレッスン室を取って、遊んでいることが多かったですよ」
「国立音大にまで来て、そんなことってあります?」
「プロのピアニストとして食べていけるのはほんの一握りですからね。この大学でも例外ではありません」

 基本として技術や能力があるのはもちろんではあるが、何事も決して純粋な実力だけではないのだという。何かを勝ち取るための、勝ちを引き寄せるような力もプロには必要だ。コンクールで金賞を取るにも、実力に加えて何か、ちょっとしたタイミングもある。それに恵まれない人物というのは、文学の世界にもいるし、音楽家にもいるものらしい。
 並木夏海は、そのタイミングにも恵まれた小説家だったのだろう。実力を兼ね備えた上で、今の世の中が求めるような作風を生み出す小説家だった。敢えて世間の需要に応えていた訳ではないが、世間が欲するものを、求められたタイミングで書いていたように思う。
 東有理もそうだ。殺伐とした音楽は、ともすればただひたすらに暗いと敬遠されるだろうに、寧ろこの時代の人間を引き寄せる力があった。置かれた場所で咲いたと言うよりも、咲いた場所が彼女らに相応しかったとでも言うべきか。

「並木さんは海外留学の話もあったと聞きましたが」
「僕が推薦したんですが、ふられてしまいました。まあでも、プロのピアニストになったとして成功していたかは分かりませんね。他校の出身ですが、今は瀬名はすみさんがいますから」
「タイミング……」
「同じ世代に何人も天才は立たないのでしょうね」

 その言葉が、やけに重く圧し掛かった。他人事ではない気がしたのだ。

「天才は孤独なものとよく言います。並木さんは孤独を人一倍怖がる学生でしたから、もしかすると自分から才を手放したのかも知れませんね」
「…………」
「…というのは、凡人の僕の推測です。並木さんの小説を読みましたが、取る筆を替えて正解だったのかも知れません」

 私が何か言いたげな様子を汲み取ったのか、羽村先生は苦笑して付け足した。
 本人が亡くなった今、その真相は分からない。人間は、事実を都合よく捻じ曲げて解釈することが得意だ。東有理は、自分のせいで並木夏海が留学を辞退したと今も思っている。瀬名はすみはと言えば、並木夏海自ら小説を選んだと思っているし、私も同じように思っている。そして羽村先生は、並木夏海は孤独を嫌ってプロの道を避けたと語った。
 聞けば聞くほど分からなくなる。並木夏海は、一体何を思って、どう考えて生きていたのだろうか。どれが本当の並木夏海なのだろうか。



 羽村先生は、最後まで笑顔で対応してくれた。次のレッスンが近付いていたため、練習室の前で別れたが、嫌な顔一つせずに送り出してくれた。学生のコンサートにもぜひ息抜きに来て下さい、とお誘いまで頂いた。
 あまり時間は経っていないはずなのに、いつも並木夏海の話を聞いた後は疲労が大きい。練習棟を出てから、ゆっくりと息を吐き出した。ここで過ごした四年間で、彼女は何に希望を見出し、何に絶望を感じたのだろう。何に幸せを感じ、どんな悲しみを経験したのだろう。大学生の彼女は、ここで何を思いながらピアノに向かったのだろう。あるいは、東有理と過ごしたのだろう。
 聞けば聞くほど分からなくなる。あまりにも、それぞれの人物から聞く並木夏海の像が違い過ぎるのだ。

「あれっ、仁科先生?」

 重い足を踏み出そうとした時、声を掛けられる。振り返ったその先にいたのは、私が直接は話したことのない人物だった。並木夏海、東有理と同じくこの国立音大の出身者で、多彩な才能の持ち主と名高いバイオリニスト―――即ち、瀬名はすみの相棒である城春輝だ。先日、音楽事務所で瀬名はすみと会った際、見掛けただけの彼に名前を呼ばれた。人当たりのいい笑顔で近付いて来たかと思えば、ぐいぐいと距離を詰められる。

「仁科先生、取材ですか?」
「え、ええ、あの、先生はちょっと」
「この間ははすみさんと込み入った話をしていたので邪魔しなかったんですが、僕、仁科さんの小説好きなんです」
「はあ、どうも」

 社交辞令でしょ、と思いながら生返事をすると、疑念を感じ取られてしまった。先ほど羽村先生と話していた時もそうだったが、そんなにも顔に出やすいのだろうか。それとも、音楽家は皆こうも察しがいいのか。私を置いてきぼりに、二、三年前に出した短編集『去れば春』が好きなのだと語り出す城春輝。そのマシンガントークをなんとか制止することに成功した私は、とりあえず何の用かを訊ねる。

「とりあえず、ちょっとお茶でも」

 何がとりあえずだ。そう思ったものの、良い笑顔の城春輝の誘いを断ることはできなかった。