小説家として死にたかった



 羽村先生に会いに来たはずの国立音大で、私は城春輝とカフェオレを飲んでいる。どこにでもあるような、自販機で売っている紙コップのカフェオレだ。学生時代ここでよく飲んだんですよ、とにこにこしながら語る彼だが、いまいちなぜこの状況に陥っているのか理解できない。彼の学生時代の話など今は正直、どうでもいいのだが。
 ちくちくと刺さる視線は、今をときめく若手バイオリニスト、城春輝が突然母校訪問をしているからだろう。向かいに座っている人物は誰だ、と、好奇の視線が訴えて来る。しがない物書きですすみません、と声に出さずにとりあえず謝罪をしておいた。

「…なんで私がここにいるか、訊かないんですね」
「訊いてほしいんですか?」
「いや、別に……」
「僕は好きな作家さんが母校にいたからラッキー、くらいにしか思っていませんよ」

 なんだか含みのある言い方だ。そう、湯気の立つカフェオレを口に含みながら思った。
 さっきも思ったが、城春輝は喋る。随分と喋る。先程の練習棟からこのカフェスペースに移動する間も、一方的に延々と喋り続けた。主に彼の読んだ私の著書についてだったが、冷やかしではなく本当に読み込んでくれているらしい。

「『去れば春』は、最後のタイトル回収が素晴らしいんですよ。最後の一編がいわゆる、音楽アルバムでいうリードトラックじゃないですか。タイトルは違っても、ちゃんと短編集のタイトルとリンクするんですよね。最後まで通しで読んで、それに気付いた時の感動と来たら」

 君、今、小説原稿三行分は喋ったぞ。いつも自分の使っている小説執筆ソフトのレイアウトを想像しながら突っ込んだ。私が、はあ、へえ、程度の相槌しか打たなくても、構わずに話を進める。私が聞いているか聞いていないかはまるで気にしていないようだ。
 実は、自分の作品についてここまで手放しで称賛の言葉をもらうことはないので、どうリアクションすればいいのか分からない。しかも、もう三年も前の作品だ。小説誌に掲載されたものの再録も多く、実際新規に書き下ろした話は少ない。なので、最も古いものを含めると三年ではきかないかも知れない。それでも、城春輝はあれが史上最高の一冊であるかのように褒め称える。私はそれを、半ば他人事のように聞いていた。

「『去れば春』を読み終えた瞬間、インスピレーションが沸いて止まなかったんです。これが映像作品であったら、僕はこのイントロで始まる音楽を作る―――そういう妄想が止まらなかった」
「…墜落の彗星」
「え?」
「並木夏海の―――『彼女が星になる前に』の、墜落の彗星は」

 我ながら、意地の悪い質問をしていると思う。何も、自分への賛辞の途中で話をすり替えなくても良いではないか。けれど、私がちくりと棘を刺したのは、どうしたって消えない並木夏海へのコンプレックスがあるからだった。
 例えば、東有理は『2LDK』が好きだと言ってくれた。城春輝は『去れば春』を良いと言ってくれている。けれど、世間の評価はそうではない。世の中が求め、賛辞を贈るのは並木夏海なのだ。周囲の誰も、私と並木夏海を比べたりなどしない。私がいつだって勝手に比較して卑屈になっていただけだ。そこまで言われるほどの物書きではない、と。今だって、素直に城春輝の言葉を飲み込めないでいる。自分への良い評価の裏に、コンプレックスをすぐ取り出してしまうのは悪癖だと自覚もしていた。

「あれは計算して作った音楽です」
「…………」
「直感で流れて来る旋律が良いか、計算し尽くして作られた旋律が良いか、それを比べるのは無意味です」
「城さんはどちらもできる音楽家なんですね」
「それができなければ、僕が音楽家たる意味もありません」

 迷いのない堂々とした言葉が眩しい。私は新人賞を獲った時でさえ、自信など欠片もなかった。聞こえて来る他者の評価は決して高いものではなく、レビューや売り上げがそれを如実に語っていた。書き続ければ売れるという訳でもない。崖っぷち作家の最後の足掻きが、今まさに女性向け雑誌で書いているペラペラの恋愛小説だ。これで駄目なら断筆だ、と考えているくらいには。
 並木夏海の周辺を探ることは、そんな自分の置かれた状況から目を背ける、いい現実逃避にもなっていた。作家の好奇心だ、東有理のためだ、瀬名はすみのためだと言いつつ、原稿のことを考えなくて済む時間は、どれだけ疲れようと焦りが生まれなかった。
 だから、自分の向かいで自分の作品を称賛する城春輝とは、目を合わせ辛い。

「僕は、コンサートにしても一曲にしても、そのフィニッシュが最高のものになるよういつも考えています」
「作品のフィニッシュ?」
「はい。そういう意味で、『去れば春』は正に理想の読後感、エンディングでした」

 二年ほどかけて書いた数本の短編がそれぞれ少しずつリンクしている―――そこに気付く読者は、少なかった。流石に行原女史はすぐにぴんと来ていたが、深く読み込まなければそれぞれに何が関連しているか分からない程度のものだ。それら全てを、最後にタイトルで回収した。あれを、美しかったと城春輝は言う。

「あの短編集が僕にとっては至高ですが、もちろん他の作品も好きです」
「…2LDK」
「あれも良いですね。結局、悲観も楽観もせず、ただ会社員として一日一日を消費して良く大人。2LDKは夢のままで終わるのだ、というラストの諦念は、多くの社会人の共感を得る」
「海辺は青」
「『濃紺の明け方』で少しだけ出て来た女性の話ですね。あれは二冊セットで読むべきです。僕は濃紺を読んだら絶対にそのまま『海辺は青』を続けて読みます」
「林檎の花」
「あれは僕、泣きましたよ。まさか最後、和成の手を取らずに一人で生きて行くなんて思わないじゃないですか。でも千香の気持ちも分かるんですよね。ちなみにあれで一曲書きました……えっ、なんで泣いてんですか」

 諦念、と城春輝は言った。正しく諦念だったのだ。見つけられたい、良い評価が欲しいという欲すら、もう諦めていた。だから、私の作品の根底にあるのはいつだって“諦め”なのだ。
 私はもう、永遠に誰にも見付けられることがないのだと思っていた。誰かに読まれていたとしても、読者の声が届くことのない作家なのだと。けれど、意図せず城春輝はそんな私の作家としての欲求を今、満たしてくれた。ちゃんとここに、読者は存在した。私の書きたかったことをちゃんと掬って、汲み取ってくれる読者がいた。
 果たして、並木夏海にはどれだけいただろうか。本当に、小説家として順調だっただろうか。彼女の小説家としての評価を、生の声で届けてくれる人間がどれだけいただろうか。画面や誌面に並ぶ文字だけでなく、彼女を小説家たらしめる称賛の言葉を、どれだけの人間が届けられただろうか。それらは全て、彼女が欲した、思い描いていたような評価だっただろうか。
 私は作家だ、だから思う。並木夏海は、小説家として生き、小説家として死にたかったはずだ。残された未完成の遺稿、あれを残したことがどれだけ心残りだっただろう。あれを最後、どのような形にして届けたかっただろう。本当は誰に、届けたかったのだろう。そして、誰にどんな感想をもらいたかっただろう。

「仁科先生、僕は仁科先生の書く小説の終わりが好きです」
「…はい」
「今、仁科先生はどう終わらせようとしていますか?」

 城春輝の口調は飽くまで変わらず優しい。それは、今私のしていることを責めるでもなく、呆れるでもない、単純な問いかけだった。
 どれほど大きな賞を獲ろうと、並木夏海が満たされていたとは限らない。私が彼女の小説を読み、抱いた感想を、なぜ彼女に直接何度だって伝えなかったのだろう。顔も知らない大衆の感想ももちろん大切だ。売り上げも、レビューだって。けれど、私は直接会って話して伝える機会がありながら、それを怠った。東有理は「三度、並木夏海を殺した」と言ったけれど、私も小説家・並木夏海の心をある意味殺していたのかも知れない。
 目を擦って、城春輝に答える。

「今、結末を決めました」

 これは、謝罪と、贖罪と、追悼だ。作家の好奇心とか、崖っぷちの現実逃避とか、誰かのためではない。並木夏海のためのものだ。生前、小説家の友人は私だけだと言ってくれた彼女に報いたい。
 並木夏海の二番煎じと言われていて良かった。小説家の気持ちは小説家である私が一番分かる。彼女のためだけに動き、彼女の見ていた孤独に触れる覚悟をし直した。