所詮友人
私の知る並木夏海は、どちらかというと落ち着いた女性だ。寡黙なわけではないが、自分よりいくつも年上に思えた。よく話したのは、音楽のことだ。瀬名はすみと友人であることは関係者の間では有名な話であり、私との会話の中でも度々瀬名はすみのことは話題に上がった。音大卒なだけあって音楽には詳しく、クラシックから現代音楽まで、彼女にたくさんの音楽を勧められた。
思えば、恋愛の話などは一度もしたことがなく、家族の話もしたことがなかった。生まれ育った神戸のことはよく聞いた。ふとした時にうっかり漏れる関西弁が可愛かったこともよく覚えている。
これまで四人から話を聞いたが、そのどれも私の記憶に残る並木夏海とはリンクしない。悩んだ私は、一度話を整理すべく再び恵比寿のバーに来ていた。今日も金色の髪が眩しい店長は、変わらず元気そうだ。
「瀬名はすみさんと羽村先生のお二人に会って来ました」
「国立音大にまで行ったのォ!偉いじゃない!羽村のジジイ元気だった?」
「ジジ……お元気そうでしたよ」
開店前だと言うのに、店長は店長でウイスキーをグラスに注いでいる。私には、以前このお店を訪れた時と同じ、ジンジャーエールを出してくれた。それを飲みながら、今日は無性に私もお酒を飲みたくなってしまった。
店内には申し訳程度にクラシック音楽が流れている。その曲に聞き覚えがあったのは、並木夏海に勧められたことがあったからだ。いい曲だと思いつつ、そのタイトルは忘れてしまったが、展覧会がどうのこうのという曲だったように思う。
話すことをまとめてくるつもりが、一切まとまらなかった。なので、最初に頭に浮かんだ疑問をぽつりとこぼす。
「…東さんって、なんで結婚するんですかね」
真っ先に東有理の話が出るとは思わなかったのか、店長は大きな目を落っこちてしまいそうなほど見開いた。
「東の結婚の話は私にも寝耳に水だったのよ」
「そういう影もなかったんですか?」
「なかったわね。前にも言った通り、東には恋愛感情がない。何か裏があるとは思ったけど、それが周りにどう影響するかなんて考えてなかったんでしょうよ」
さすが、長年の付き合いなだけあって、その勘は当たっていた。あれから東有理ともやり取りは続けているが、結婚については本人から全てを聞いている。どうやら彼女の結婚というのも、相手と利害の一致によるものらしい。つまり、そこに一般的な恋愛感情はなく、同じ家に住む予定もないという。だが、そういう事情という意味ではなく、どういった心理で男性と結婚という発想に至ったのか、それが全く理解できなかった。恋愛感情がない、という東有理であるから、尚更に。
東有理にとっても並木夏海は特別大切な友人だ。何にも代え難いほどに。利害の一致による結婚ができたのなら、並木夏海をその相手には選べなかったのだろうか。並木夏海もその提案をするに至らなかったのはなぜなのか。
店長は大袈裟なため息をつく。アナタは恋愛の機微が分かっていない、と。僭越ながら、確かに恋愛経験は随分とお粗末である。
「仁科、アナタ担当の編集者は女だったわよねェ。信頼関係は?」
「良いと思いますけど」
「明日その担当に付き合ってくれって言われたらどうよ」
「ど、どうって、どうしよう……あっ」
「そういうことよ」
思わずついて出た困惑の言葉。それを発した瞬間じとりと睨まれ、しまった、と思った。この失言が何よりの理由だ。
「世界で一番大切な人間を困らせるわけにはいかないでしょう」
「つまり、一生言わないつもりでいた……?」
「そう。東を困らせるくらいなら親友でいたいっていうのは、自己犠牲に入るのかしら。私はそうは思わないけれど、悲しいことに違いはないわね」
東有理にとって並木夏海は、幸か不幸かどこまでも“親友”だった。それ以上でもそれ以下でもない、ただ親友だったのだ。自分の半身とも言えるほどの存在でも、紙切れ一枚で約束される特殊な間柄になることは、はなから東有理の頭にはなかった。いや、友人間で公に認められる関係になるという発想は、東有理でなくともそもそもないだろう。
それを叶えようと思えば、片一方の思いだけでは成立しない。まして、片方に恋愛感情が欠落していればなおのこと。それほどに、人生のパートナーというのは重い。そして、“親友”というものがそれになり得ないことを、痛いほどに証明している。
その証明こそ、並木夏海をどん底へ突き落した絶望の一つだった。
「いじらしかったし健気だったわ。あの子、ここに来る度に東の話ばかりするんだもの。二人で話している時なんて、いつまで経っても高校生みたいだったわよ。子どもでもあるまいに、いい大人が箸が転げるだけで笑いが止まらないんだから」
小さく笑って、過去の並木夏海の話をする。娘の話をする親のよう、と言えば、せめて姉だと言えと怒られるだろうか。けれど、話を聞くに並木夏海も店長のことを母のように、姉のように慕っていたのだということが分かる。誰にも言えない心の内を、ただ一人に話していたところを見ると。
グラスに残った銘柄も分からないウィスキーを一気に煽る。手持無沙汰なのか、もう中身のないそれをゆらゆらと揺らして、店長は言葉を繋げる。
「東が並木の気持ちに気付くことはないわ。恋愛が何か分からなければ、その好意がどういうものか理解なんてできないもの。だから並木は何年も何年も、ある意味安全に東を好きでいられた」
「分からないことを逆手に取って……」
「そうね。けれど、気付かないことと、告白されて気付かされることは別物だわ。東だって誰よりも友人として並木を信用していたんだから」
友人の信頼を裏切りたくない、その果てに友人を失いたくない、誰よりも大切な親友を。だから東有理への想いを永遠に封じ込めることにした。長く長く、終わりの見えない時間は、並木夏海にとってどれほどのものだっただろう。
それでも、誰よりも近くで有理が生きて笑っていてくれれば、一生伝わることはなくてもそれで良かった―――そう、店長に話したことがあるのだという。
そんなささやかな願いすら打ち砕かれた東有理の結婚。二人の関係を思えば、その結婚の事情も東有理は話していたのだろうが、だからなんだと言うのだ。ただ利害の一致で公的な、特別な関係になれると言うのなら、並木夏海だって東有理と同じような関係になれたはずなのだ。
それが、並木夏海を襲った第二の絶望だった。たかが紙切れ一枚なのに、何物にも代え難く、何者にも勝てなくなってしまうのだ。精神的な優先順位などではなく、そう法律が認めてしまう。所詮友人、それは他人なのである。
「並木の綴った小説たちは、並木の心の残骸ね」
「…………」
「東との理想の関係を小説に描くことで、決して埋められることのない所を無理矢理、埋めていたのかも知れないわ」
多くの人々の共感を得た小説も、並木夏海は全て自分のために書いていたのかも知れない。報われることのない思いを供養するかのように。そう思えば、いつだってたった二人にスポットを当てた小説を書いていたことも納得できたし、腑に落ちた。
並木夏海の作風は、主人公以外の人物を別の小説で描くことが好きな私とは、まるで対照的だ。当事者二人以外の描写は必要最低限に絞られており、それらのギャラリーが別の作品で描かれることは決してない。二人の世界に終始している所などは、確かに特徴的だった。
だが、小説は作者の信念を映しはするが、だからと言って全てではない。だから、並木夏海の生活において東有理以外は薄かったわけではないだろう。そうでなければ、こんなにも彼女を語ってくれる人間が何人もいるはずがない。
そして、ここまで話しておいて店長は思わぬことを告白した。
「…仁科、私がここまで喋ったのは並木に頼まれていたからよ。もし自分に何かあって、訪ねて来たのが仁科だったら全て話して欲しいって」
「なにそれ、夏海さんは自分の死期を悟っていたってことですか?」
「まさか。けれどほら、並木は実家とほぼ絶縁状態だったから」
並木夏海から家族の話題が一切出なかった理由がようやく分かった。だが、音大にまでやっておいて、絶縁とは。プロのピアニストにならなかったからかと聞いたが、違うのだと店長は首を横に振る。
「東が好きだったからよ。並木の両親はそういう恋愛を認めなかった」
「…………」
「東は逆ね。自分に恋愛感情がないことを引け目に感じて、実家と距離を置いていた」
「…東さん、これで両親を安心させられるって」
「でしょうね」
少しずつ、けれど確かに、並木夏海という女性の輪郭が確かになって行く。落ち着いていて、けれどどこかミステリアスな雰囲気もあった彼女。そんな彼女の生活には、無邪気にはしゃぎ合える愛しい親友がおり、公私ともに高め合える友人がおり、弱みも隠さず話せる人生の先輩がおり、自分の心の核を否定した両親がいた。そんな彼女が生涯テーマにしたのは、“二人で生きること”だった。それは彼女の望みであり、諦め、手放したものなのではないだろうか。店長は、並木夏海の作品は彼女の心の残骸だと言ったが、あれは並木夏海の心の剥片そのものだ。そう言ったら、「小説家って面倒くさいわね!」と言われてしまいそうだが。
「色んな人間が色んな並木夏海を見たでしょうね」
「はい」
「私が見ていたのは、一途にただ一人の人間に恋をしていた立木水樹だったわ」
店長が口にしたのは、並木夏海の本名だ。本名以外で執筆活動を行っている小説家は珍しくはないが、東有理も瀬名はすみも決してその名で呼ばなかったため、私も危うく忘れかけていた。つい反応の遅れてしまった私を見る店長の視線が、こちらを探るかのように刺さる。アナタは彼女をどう見ていたの、と問われているかのような目だ。
生前、同世代で最も売れている作家としか見ていなかった当時の自分を呪いたくなる。どうしてそんなにも表面しか見ることができなかったのか。いや、興味が持てなかったのか。それは、私の並木夏海への卑しい羨望だ。羨望こそが、彼女を真に理解するということから遠ざけていたのかも知れない。中学生だったか、高校生の時だったか、「羨ましいという気持ちが戦いを生む」と言った担任がいた。十代の私にはしっくり来なかったあの言葉の意味を、今更ながら理解した気がする。
その居心地の悪さのような、気まずさのような私の感情を読み取ったのか、店長は文字通り「ふふふ」と怪しく笑った。
「私はね、結構仁科のこと気に入っているの。他人に興味ない癖に首突っ込みたがる所とかね」
「それって褒めているんですか、貶しているんですか」
「どっちもよ」
そう言って、私のジンジャーエールにウィスキーを投入してしまう。いい笑顔を浮かべながら「乾杯」という店長に、頬を引きつらせながらグラスを掲げ、一気に飲み干す。とんでもない味が、すごい勢いで喉を駆け抜けて行った。