彼女が生きていたこと
どういう小説家でありたいかという話を、一度だけ並木夏海としたことがある。好奇心を忘れない小説家でありたいと答えた私は、彼女にも同じ問いをした。すると彼女は言った。生き方そのものが小説のような小説家でありたい、と。
今日は、編集部を訪れていた。並木夏海の担当、松野陽加に会うためだ。以前、東有理から預かった並木夏海のものと思われる原稿を、松野陽加に見せて確認したかった。このお粗末な原稿が本当に並木夏海のものなのかを。
松野陽加には私も初めて会ったが、行原女史とは同期らしい。お陰で取り次いでもらえたのだが、並木夏海のプライベートに触れると思うと、この場に行原女史を同席させるわけにはいかなかった。なので、編集部の隅で松野陽加と対峙しているのは私一人だ。とはいえ、瀬名はすみや羽村先生にも一人で会いに行ってからだと、まだ勝手知ったる編集部の方が緊張はせずに済んでいる。
ほっとしたのも束の間、渡した原稿を読み始めた松野陽加の顔色は、さっと青くなった。
「どこでこれを?」
「…並木夏海の友人が、部屋で見つけたそうです」
「友人?」
「え、ええ」
何も間違ったことは言っていない。けれど、松野陽加は怪訝そうな顔で私を見る。私自身に疚しいことは何もないのだが、疑われるとぎくりとしてしまう。
「これは間違いなく並木先生の原稿です」
「…………」
「でもごくごく初稿です。仁科先生も荒いと思ったでしょう」
「まあ、多少は…」
恐らく、並木夏海の作品だと言われなければ、それなりに完成しているものだと思う。並木夏海が書いたものだと言って渡されたから、この原稿に違和感しかなかった。ここから加筆修正を繰り返し、並木作品はできているのだという。この初稿も、前に松野陽加は目を通したことがあるのだという。なんでも、次に出すはずの小説だったのだとか。
「仁科先生、なんでも並木先生の周囲を探っているそうですね」
「探って……そうですね」
「亡くなっている並木先生を部屋で見つけたのは、私です」
「な……、」
「救急車を呼んだのも、警察に話をしたのも、そして並木先生のご両親に連絡をしたのも私でした」
松野陽加は声を震わせた。並木夏海の師は、松野陽加の心にも暗い影を落としていた。
長く並木夏海の担当をして来た松野陽加。その彼女のことを、プライベートでは姉のように慕っていた―――並木夏海が公私共に頼りにしていた人物だ。音楽をやめ、小説家の道を選んだなりゆきも松野陽加は聞いていたという。
並木夏海の交友関係はあまりに広い。それなのに、並木夏海が何を考えて生きていたかを知る人物はほとんどいなかった。他の音大時代の同期や、東有理以外の友人、並木夏海と交流のあった作家にも話を聞いて回ったが、広く浅くと言えばいいのか、東有理や店長以上に深い関わりのある人物にはなり得なかった。藁にも縋る思いで行原女史に頼み込み、松野陽加にアポを取ったのだが、まさかここに来て並木夏海の最期に近い場面に触れるとは思わなかった。
思わず息を吞むが、松野陽加は暗く震える声で話を続けた。
「先生のご遺体がご両親に渡るその時まで、私は並木先生の傍にいました。ただ、お通夜にもお葬式にも、私は行けませんでした」
「なぜです」
「ご両親に拒まれてしまったからです。二度と関わってくれるなと」
並木夏海の実家との関係があまり良くないことは店長からも聞いている。大学卒業以来、連絡もほぼ取っておらず、帰省することもなかったと。それでも流石に、冷たくなった並木夏海を前に、彼女の母親は泣き崩れたという。彼女は著名だから、もしかするとどこかで顔くらいは見ていたかも知れないが、およそ十年ぶりの再会だったはずだ。まさか娘が遺体になっているなど、両親共に夢にも見なかったことだろう。
親族でない松野陽加は、司法解剖の結果も聞いていない。死因は両親のみが知っており、今も彼らは公表していないため、センセーショナルな話題として変な広がり方をしてしまっている。
「不名誉だと思います。特に、自殺なんじゃないかって噂は、あまりにも」
「ええ」
「並木先生は自殺するような人物ではありません。前日に私と打ち合わせをした人が、自殺なんてすると思いますか?」
「松野さん…」
「けれど、私ですら死因を知らない。だからどうしても、一パーセントにも満たないくらいの気持ちで疑ってしまうんです」
「松野さん」
「並木夏海は自殺したんじゃないかって」
松野陽加は、私に口を挟ませる余地もなく畳みかけた。最後まで言い切って、そして自嘲するかのように笑った。
「瀬名さんもきっと同じことを言っていたでしょう?並木先生は、死を選ぶような人じゃないって」
「…そうですね」
松野陽加の担当した作家で、最も成功を収めたのは並木夏海だろう。この国にごまんといる小説家の中で、その筆だけで生活できている人間は少ない。決してたった一本だけが売れた訳ではなく、新作を出せば全てヒットした。現在映像化されている作品は一本だけだが、その後も作家として続けていれば、間違いなくいくつも映像化作品が生まれただろう。
今日最初に顔を合わせた時、随分痩せているとは思ったが、きっと並木夏海の死によりやつれたのだろう。一応出社はしているし、仕事も続けているようだが、以前のような覇気は今はないと行原女史も話していた。
もういないんですね、という瀬名はすみの言葉を思い出す。こうして、生前並木夏海と関わりのあった人間と話すほどに、私も並木夏海の死を実感する。あんなにも、噓のようだと思っていたのに。特に、松野陽加の話は思いもよらないものであり、衝撃で私もかける言葉が見つからない。
初稿を握って、彼女は涙を落とした。
「…この話は、並木先生自身に一番近い話です」
「そう、でしょうね」
「完成一歩手前だったデータを仁科先生にお渡しします」
そう言うと、松野陽加は涙を拭いてブースを離れる。この初稿は、東有理が並木夏海の部屋で見つけたものをコピーしたものだ。それを今、どうするべきか悩んでいる。東有理に返すべきか、返さざるべきか。
暫くして戻って来た松野陽加は、一本のUSBを差し出した。急いでその辺にあったUSBにデータをコピーしたのか、容量はごく小さいものだ。目の赤いままの松野陽加が、最後に言う。
「ここに、並木先生のほとんど全てがあったと私は思っています」
誰もが、並木夏海に囚われている。それが良いだとか悪いだとか、そんな簡単な言葉では片づけられない。けれど、どうしたって並木夏海は多くの人間の心を抉っていった。その死によって、多くの人間が涙を流したのだ。なぜ彼女が、という疑問だけを残して。
彼女の死は悲しい。それは曲げようのない事実だ。けれど、彼女の存在を悲しいままにはしておけない。彼女が私たち残された人間にとっての暗い影だけになってはいけないのだ。彼女が生きていたことも―――彼女が生きて笑っていたことも、紛れもない事実なのだから。
このUSBの中に残っているものが、悲しみだけではないことを祈りながら、私は編集部を後にした。