「私です」
並木夏海の死後、住んでいた部屋はあっという間に片付けられてしまったらしい。東有理も松野陽加も、手を出す隙がなかったという。ただ、仕事に関する資料などは全て、並木夏海の両親が松野陽加に押し付けて行った。
「残った資料などを返したいんです。並木先生の仕事を、先生のご両親にも見て欲しい」
「並木先生はご両親のことをなんと?」
「いつも気にかけているようではありましたけど、あまり話題に出したことはありませんでしたね」
編集部でそんな話をして数日後、私は遺品を並木夏海の実家に届ける松野陽加に同行した。松野陽加はその細い体で両手に荷物を抱えており、「一つ持ちますよ」と言うと躊躇いなく渡して来た。
平日の昼間は新幹線も空いていて、私たち以外にはこの車両に数人しか乗っていない。乗車前にコンビニで買った水を取り出して、窓際に置いた。間もなく東京駅を出発し、見る見る内に新幹線は速度を上げる。見慣れた都内の景色が、慣れない速度で移り変わって行く。いつも徒歩で歩いている銀座を見下ろして、水を一口飲んだ。
隣に座る松野陽加は、さっそく小さなノートパソコンを取り出して仕事を始めたようだった。有給を取ったと言っていたのだが、行原女史といい真面目な人だと思う。乗り物酔いの激しい私には到底無理な作業だ。
「並木先生の“砂時計”は読んだことありますか」
タイプ音にまじって、松野陽加の静かな声が隣から訊いて来た。こちらを見ることなく、淡々と仕事を続けながら。
「砂時計…確か親子の話でしたよね」
「はい。親離れを描いた作品ですが、並木先生は“自分は上手に親離れと子離れができなかった”と後悔している様子でした」
並木夏海も東有理も、親子関係はぎくしゃくしていると聞く。東有理は彼女自身の引け目から実家と連絡を取らなくなったタイプだが、並木夏海はそうではない。言い争いを経て、どうしようもなく険悪な仲なのだという。私にも以前、勘当同然だというようなことを言っていたことがある。その時の寂しそうな様子から、本当は争いたくなかったのではないかと察した。決して親を憎んでいる訳ではなさそうな様子も窺えたが、当時はどういう理由で勘当なんて言葉が出るほどになったのかまでは、訊ねることができなかった。ナイーブな話題に首を突っ込むことは慎重になってしまうが、もしかしたらあの時、本当は深く訊いて欲しかったのだろうか。
並木夏海は、当時から友人が多いイメージがあった。作家のみならず、瀬名はすみのような音楽家から、デザイナー、研究者など、その交友関係は多岐に渡った。けれど、あれだけ人に囲まれながら、いつもふとした瞬間影を落とすその横顔は、両親との関係に起因するものだったのだろうか。
そう考えたのは、何もかもを東有理に結び付けるのは、一人の人間を語る上では何か違う気がしたからだ。並木夏海は、いや、並木夏海に限らず、人間を構成するものはもっと複雑なもののはずだ。もちろんそのトップに東有理がいたとして、並木夏海の心の黒部分にいるのが東有理一人とは限らない。
「夏海さん、無念でしょうね」
「ええ」
それきり、会話はほとんど途切れてしまった。時々スマートフォンの通知を確認したり、転寝をしたりして、二時間半と少しの移動を終える。新神戸に着いて以降は、ただ松野陽加について行くだけだった。大阪や京都には何度か行ったことがあったが、神戸の地を踏んだのはこれが初めてだ。おのぼりさんよろしくいい大人がきょろきょろ見渡してしまったが、見るもの感じるもの全て資料にしたい作家としての好奇心が抑えられない。
やがて、地下鉄と阪急電車を乗り継いで、とある駅に到着する。そこから更に歩き、坂道をのぼる。その途中から異変に気付いてはいたが、閑静な住宅街は、ただの閑静な住宅街ではなく、閑静な高級住宅街のようだ。
「…松野さん、もしかして夏海さんってお嬢……」
「ええ」
「あー……そっか、音大だ……」
どの邸宅も分厚い壁に囲まれており、一戸の敷地が広い。どの家の入口にも防犯カメラが設置されており、警備会社のマークも見受けられる。並木夏海がコンシェルジュ付きマンションに住んでいたことと、この土地の生まれであることが結び付いた瞬間だった。
長い坂道を歩き続け、もしかしなくても荷物持ちのために私に声を掛けたのでは、と松野陽加を疑い始める。きっとここへ来る話をすれば、今の私の状況から絶対について行くというはずだったからだ。やや恨みがましく思いながらも、彼女がいなければ並木夏海の両親に会うことなど叶わなかったはずなので、文句も恨み言もぐっと飲み込む。真夏でなかったのが不幸中の幸いだ。
そろそろ足が動かなくなって来る頃、「ここです」と言って松野陽加は立ち止まる。そこもまた、立派な邸宅だった。ごく庶民の世界で育った私は、ぽかんと口を開けるしかできない。松野陽加がインターホンを押し、短いやり取りをするとすぐに自動で門は開いた。もはや私にとっては社会見学の気分だ。
「しかし、よく夏海さんのご両親にアポが取れましたね」
「これで最後なのでと頼み込みました。二度と連絡は取らないと」
「…そうですか」
玄関を開けると、並木夏海の母親が待ち受けていた。母親だと断言できたのは、並木夏海が彼女によく似ていたからだ。誰が見ても並木夏海の母親だと分かるだろう。けれど、並木夏海とは違って表情は暗くかたい。こちらが名乗る隙もなく、どうぞ、と短く言うと、私たちをリビングに通した。そこには既に、並木夏海の父親と思われる人物もいた。
招かれているとは言え、歓迎されていない空気とはこのようなことを言うのだろう。けれど、単に並木夏海の荷物の引き渡しに来たわけではないことを両親も気付いているからこそ、こうしてリビングに通したのだ。
高級そうなカップに入った紅茶を目の前に置かれる。ありがとうございます、と言うと、並木夏海の母親は私をちらりと見て、「いえ」と返す。
「お二人にはまずこちらを」
「引き取れない、と何度も言ったはずですが」
並木夏海の所持していた資料や、原稿データ、愛読していた本を差し出すが、ぴしゃりと拒絶をされてしまった。しかし、もう何度も双方はこのやり取りをしているようで、どちらも一歩も引かない。
「並木先生はずっとお二人に新刊が出る度に贈られていました。それでも、小説家であることを否定されるのでしょうか」
「松野さん、我々は小説家の水樹を否定するわけではありません」
「ではなぜ?並木先生はご両親と関係の悪かったことをずっと後悔されていました」
松野陽加の隣で、彼女と並木夏海の父親のやり取りを聞いていて心臓が凍って行くようだった。二人とも声を荒げているわけではないのに、冷戦のような口論のせいで空気が非常に悪い。片方が口を開く度に、目だけで発言している方を追う。もはや高級そうな紅茶の味さえ何も分からなかった。
一方で、並木夏海の母親は全く口を開かない。暗い表情で俯き、松野陽加のことも、自身の夫のことも、私のこともちらりとも見ない。娘の死から立ち直れていないことは見て取れた。
「松野さんには大変お世話になったとは思います。けれど、これ以上は私たち家族…親子の問題です。口を挟まれる筋合いはありません」
「ずっと連絡を無視しておきながら、最後は血縁を盾に取られるんですね」
「ま、松野さん、それ以上は」
流石にこれ以上ヒートアップするとまずい。卓袱台をひっくり返すではないが、どちらが先に怒鳴り出すか、時間の問題のような気がする。膝の上でめいいっぱい拳を握り締める松野陽加を宥める。しかし私の声掛けも虚しく、松野陽加は発言をやめない。
松野陽加にとって、並木夏海はビジネスパートナーだと思っていた。松野陽加は、当時その才が埋もれていた並木夏海を発掘し、ベストセラー作家へと押し上げた人物だ。それ故に並木夏海は自身の担当である松野陽加のことを随分信用していた。並木夏海はプライベートなことまで松野陽加に相談し、頼るほどに。ビジネスパートナーなどではないと思っていたのは並木夏海だけのはずではなかったのか。
いや、そんなはずがない。確かにクールでやり手の編集者だとは聞いていたけれど、ビジネスだときっぱり言い切ってしまうような人物であれば、単に自分を押し上げてくれた担当というだけであれば、あんなにも並木夏海が慕うはずがないのだ。
並木夏海のこととなると頑として意見を変えず、有給を無理矢理もぎ取ってまで神戸に足を運ぶ。並木夏海が両親に引き取られるまで―――最後の最後まで彼女の傍にいた人物、並木夏海が自殺したという噂を“不名誉”だと言い切った人物。はっとする。どうしてここに来るまで気付かなかったのか。
「私です……」
「松野さん、だめです松野さん、」
「夏海の傍にいたのは私です!私が誰より夏海の後悔と罪悪感を知っていたんです!あなたたちよりずっと、夏海を…っ!」
「松野さん、もう…」
やめましょう、と言い切ることができなかった。涙を堪え切れなかった松野陽加が、両手で顔を覆う。震える彼女の背を擦りながら、並木夏海の両親の方を見た。父親の方は、複雑そうな顔をしながら松野陽加を見つめる。
この話し合いは不毛だ。誰が悪いわけでもなく、何が正解でもない。解決策なんて、並木夏海のいない今、何一つないのだ。並木夏海がどうしたかったかなんて、本当の意味では誰にも分からないのだから。推し量ることはできても。
きっとそれは松野陽加も分かっている。誰より知っていたと言い切ったところで、じゃあ本心はどうかなんて、やはり並木夏海にしか分からない。ただ一つ分かることは、結局誰もが並木夏海に囚われている、ということだけだ。
「松野さん、帰りましょう。ここに居続けることはあなたにとっても良くない。もう来る必要のない場所です」
「……ええ」
良い思い出だけを抱いて生きていければいいのに。けれど実際はそうはいかない。並木夏海の抱えた暗闇を一度覗き込んでしまえば、彼女に対して太陽のように明るい思いだけでは回顧することはできない。私も、東有理も、店長も、瀬名はすみも、松野陽加も、そして並木夏海の両親も。
松野陽加を支えるようにして立ち上がったその時、固く口を閉ざしていた並木夏海の母親が「しいんは…」と呟く。
「待て、お前、」
「死因は、急性硬膜外血腫です」
言うな、と父親が強い口調で責める。その声を無視して母親はゆっくりと腰を上げると、松野陽加に対して深々と頭を下げた。ありがとうございます、と言いながら。
「水樹の自殺の噂を消して回って下さったと聞きました」
「……はい」
「水樹は正確な聴力を失って、音楽家の道を断たれました。そんなあの子をここまで導いて下さったのは、松野さんだったんですね」
その言葉に松野陽加はまたぼろぼろと涙をこぼす。呻くような声が漏れ、その場に崩れ落ちた。並木夏海の母親も膝をつき、松野陽加の手を取る。遅くなってごめんなさい、と松野陽加に向けて言うと、松野陽加も何度も首を横に振った。
誰もが涙を流した。並木夏海と言う一人の人間の死に。東有理は親友として、瀬名はすみは戦友として、店長は彼女を見守った大人として、両親はもちろん両親として。誰が一番辛い思いをしたとか、苦しい思いをしたとか、順番をつけるつもりはない。辛さも苦しさも寂しさも後悔も、立場が違えばそれぞれ形が違う比べようのないものだ。
それでも、松野陽加を前にして私は自分に問いかけた。私は、涙を流すほどのことを並木夏海にしてやれたのだろうかと。
「水樹の方が、いつも私に、希望をくれていたんです…」
絞り出すような声で、松野陽加は最後に言う。ありがとうね、という母親の声は、これ以上ないほどに優しかった。