起こらなかった悲劇



 松野陽加も私も、すぐに東京に戻れるような気分ではなかった。電車で三ノ宮に向かい、そこからひたすら歩く。無言で歩き続ける松野陽加は、ついて来いともなんとも言わなかったが、一人にしていいような雰囲気ではない。既に疲労も溜まっていたが、迷うことなく進む彼女の後を追った先には、神戸港が広がっていた。

「つ、つかれた……」
「作家とはいえ体力作りもした方がいいですよ、仁科先生」
「そのようですね……」

 日も落ちたせいで、海の風が肌寒さを誘う。私は思わず服の襟を掴んだ。雪国生まれだという松野陽加は、あまり震えているようには見えない。東京もそれなりに寒い土地ではあるが、港の寒さはまた少し違う。今日は風も強いため、一層震えた。
 波打つ海面には神戸の景色が反射している。ふと足を止めた松野陽加と並び、ぼんやりと目の前の海を見つめる。並木夏海と東有理も神戸出身だ。十代の彼女らも、こんな風にこの景色を見ていたのかも知れない。十八で親元を離れ上京する決意をした二人は、この街のどこかで将来の希望を話していたかも知れない。いつか音楽で成功したら神戸に凱旋しようと、そんな未来を描いていたのかも知れない。
 けれど実際はそうは行かなかった。並木夏海は国立音大在学中に、音楽家になるには致命的な聴力の問題が生じた。けれど、聴力の問題は決して東有理には打ち明けることはなかったのだという。海外留学の話を蹴ったのも、東有理のためだけではなく、自身の聴力のこともあったからだ。東有理に心配をかけないよう、気を遣わせないよう―――そう思っての選択が、むしろ東有理を長年苦しめていたとは並木夏海も思わなかったに違いない。

「……あの、」
「気を遣わないで下さい。どんな話が出ても受け止めようと覚悟して来たんです、今日は」
「そうですか…」

 さっきまで一つに纏めていた髪をほどいて、松野陽加は言った。
 彼女は、並木夏海の名誉を回復したいと誰よりも願っていた人物だ。そのために、並木夏海の死の真相を知ろうとしていた。唯一それを知る並木夏海の両親に何度もコンタクトを取って。それ以外の目的なんて何もなかった。ただ、自身の信じた作家のために、担当として作家の名誉を守ったのだ。
 初めて明かされた並木夏海の死因は、急性硬膜外血腫。あの日、雨で濡れた歩道橋の階段から足を滑らせた子どもを庇い、並木夏海は転落していた。自宅に帰ってからの数時間は意識も清明だったらしい彼女は、ほぼ毎日つけていたという日記にその一件のことを記していたのだ。そうして人知れず病状は悪化、亡くなったところを松野陽加が発見した。彼女の日記は両親が回収しており、事の解明に至ったのである。
 一時、世間をざわつかせた若い小説家の死は、何の事件性もなかった。彼女の死、それ自体には東有理が罪悪感を抱く必要は何もなかったのだ。呆気ないような、ほっとしたような、複雑な感情が私の中で渦巻いている。一連の中心にあった並木夏海の真実が明らかになったというのに、すっきりした表情の松野陽加とは真逆に、私はまだ釈然としない。
 それを察したらしい松野陽加が、沈黙を破るように口を開いた。

「最後…並木先生をご両親の元にお帰しする際、初めて東さんに会いました」
「東……東有理!?」
「先生から東さんの話を聞いたことはあったんです。一緒に上京して、一度は一緒に本気で音楽家を目指した親友だったと」

 たった今、頭の後ろの方を掠めていた人物の名前が松野陽加から飛び出し、思わず声が裏返った。通り過ぎる人たちが私の方を振り返る。まずい、と口元を抑えた。

「この子がって、ピンと来ました」
「ピンと?」
「この子が、並木先生の全てだったんだって」

 並木夏海の遺稿の一文目には、“あの人は、私の全てだった”と書かれていた。愛しさも、憎しみも、羨望も、嫉妬も、憧れも、慈しみも、尊敬も、全てだった。作中、愛する人に対する感情は、その全てが含まれていた。相手の全てが忌むべきものであり、欲したものであり、ただ好きだという気持ちだけでは終われない。
 あの作品が、並木夏海が自身を深く落とし込んだものだとしたら、あらゆる感情が最も高いところまで到達するほど自分を揺さぶる相手―――並木夏海にとって、東有理がその相手だったということだ。
 東有理が見つけた原稿から大きく変わっている出だしの一文は、“私の世界一憎い人は、世界一愛した人だった”、である。ただしそれは、ほぼ最終稿であるデータを読めば容易に初稿の出だしへと結びつけることができる。けれど東有理は恋愛をしたことがない、恋愛感情のない人物だ。だからこそ、愛するがゆえに憎しみの感情もあるということが、もしかすると理解できなかったのかも知れない。
 松野陽加は、そこにあるであろう水平線の方へ目をやる。賑やかな夜の港の明かりが、彼女の横顔を照らした。その表情からは、何を思っているのか推し量ることはできない。

「でも、並木先生のお父様、東さんを見るなり怒鳴り散らしたんです。水樹はお前のせいで辛い思いばかりして来たって」
「なん…っ!?」
「きっと悪い人じゃないんです。ただ、誰かのせいにしたかったのでしょう」

 言いがかりにしろ東有理は何も言い返すことはしなかったのだろうが、とんでもない空気だったことには違いない。その場に居合わせた松野陽加には同情せざるを得なかった。
 並木夏海の父親の気持ちも分からんではない。十年会っていなかった娘との再会が、まさか物言わぬ亡骸になっているなんて夢にも思わなかっただろうから。とはいえ、かっとなって咄嗟に出た言葉は、余計に東有理をいたずらに追い込むことになってしまったはずだ。まして、並木夏海と東有理は幼馴染みだ。両親が東有理のことをよく知らないはずがないというのに。

「並木先生の死因を公表しなかった理由も分かるんです」
「あの、それってもしかしなくても夏海さんのお父さんが…」
「ええ、東さんに責任を感じて、背負って欲しかったんでしょうね。並木先生が東さんを好きだったことは、ご両親もご存知だったそうですから」

 何がどこで違ったのか、どこで何を掛け違えたのか、どこで何の歯車が噛み合わなかったのか。ほんの少し何かが違ったら、起こらなかった悲劇かも知れない。誰のせいでもない、だれに責任があるはずでもない。ただそれでも、運命の悪戯と呼ぶにはあまりに深く重い。

「誰も悪くない」

 松野陽加が、自分に言い聞かせるようにそう呟く。袖から除く白い手が、強く握り締められている。

「誰も悪くなかったんです、誰も」
「ええ」
「並木先生は誰にも殺されていないし、誰も並木先生を殺していなかった」
「ええ、そうです」
「だから良かったんです、これで」

 良かったんです、と再度繰り返す。その言葉は、これで終われるとでも言っているようだった。
 長かった、並木夏海が亡くなってから。けれど、これからの方が長い。普通に健康に生きられれば、私たちが並木夏海のいない世界を生きて行く年数の方がはるかに長いのだ。並木夏海がいなくても、私たちは生きて行かなければならない。並木夏海が生きていた、並木夏海と共にいた時間を背負いながら。
 松野陽加がゆっくりと体ごと私を振り返る。街灯が反射したこちらを向く双眸は、濡れているようにも見えた。

「私は並木先生の、姉のような存在でありたかったんです」
「姉?」
「私にはもう家族がいません。家族と疎遠になっている並木先生に、シンパシーを感じていたんです。だから……」

 一度言葉を切り、不自然に鼻を啜る。手の甲で押さえ、振り切るように頭を振った。

「仁科先生。私は、並木先生のいい担当でいられたんでしょうか」
「もちろん、きっと」

 肯定の言葉を返すと、松野陽加が小さく笑う。それは、私が初めて見る松野陽加の笑った顔だった。表情筋の使い方を忘れたかのようにぎこちない。けれど、間違いなく彼女の笑顔だった。
 今日は神戸に泊まるという松野陽加とは、そこで別れることになった。もう少し神戸の港を眺めて行くのだという。どこか危うい感じもしたが、私が邪魔してはいけない時間のような気がして、私は一人で東京に戻ることにした。
 港の夜景に背を向ける。けれど、すぐにもう一度振り返った。松野さん、と小さな背中の主の名前を呼ぶ。

「帰って来て下さいね、東京に!」

 最後にそう声を掛けると、松野陽加は後ろ手に手を振る。彼女がその時どんな顔をしていたのか、私が知って良いものではないのだろうと思った。