最初から最後まで
「すっごい顔してるわよ」
「それ昼間別の人にも言われました…」
今日の午前中、容赦なく原稿をせっつきに来た行原女史に全く同じ言葉を言われた。
神戸から帰って二日、まだ私の心は東京に帰って来ていないような心地でいる。並木夏海のことも、東有理のことも、そして松野陽加のことも、自分の中で上手く消化できずにいるのだ。キーとなっていた並木夏海のことは、真相も解明されたというのに。
週末は忙しい恵比寿のバーも、平日の真ん中ではさほど混んでおらず、カウンターに座った私を店長がずっと相手してくれている。
「…店長は見ましたか、出版社のホームページ」
「見たわよ」
短く答えて、手際よくお酒を作って行く。からからとマドラーでグラスを混ぜる音が、私は案外嫌いではない。目の前に置かれた名前も知らない飲み物の正体が何か分からなくても。ありがとうございます、と言ってグラスに口をつける。思いのほか度数の高いらしいそれは、鼻の奥をつんとアルコールのにおいが通って行った。
並木夏海の両親は、出版社のホームページから逝去に関するコメントを出した。個人のホームページを持たず、仕事用のSNSアカウントも持っていなかった彼女の身内が公に発言するには、出版社を通すのが一番確実だったのだ。そこには、細かい経緯は記されていなかったものの、病死であることははっきりと書かれていた。その発表に関しては、事前に行原女史から知らされていたため、私も東有理には「近々出版社から発表がある」とだけ伝えてはいた。発表に際してニュースでも取り上げられたため、店長も知っていたのだろう。もしくは、東有理から聞いたのかも知れないが。
「夏海さんの担当の松野さんは、これで良かったんだって言いました」
「そうね、誰かに殺されたわけでも自殺でもなかった。そうでしょ?」
「そりゃあ、そうなんですけど…」
「仁科、アナタ東と同じ顔してるわよ」
出版社の発表を見てすぐに、東有理はここへ駆け込んで来たのだという。それ以上のことは店長も何も言わなかった。東有理が一体どんな話をして行ったのか、どういう話を二人でしたのかということも。ただ、私と同じ顔をして、ということは、少なくとも何か釈然としないような、腑に落ちないような、すとんと心の底に落ち着く感情ではなかったことだけは分かった。
「残された人間がどう思うかは勝手よ。並木の本当の死因を知ったとして、東はきっと自分を責めることはやめないわ。あれはそういう性格だもの」
「私もそう思います。でも…」
多分、そういう話ではない。自分に原因があったとかなかったとか、そういう話ではないのだ。東有理の後悔はもっと別の所にある。あれほどまでに自分を責める理由は、ただ一つしかない。同じマンションに住んでいたから?―――違う。長年の親友だったから?―――違う。東有理は、きっと並木夏海の気持ちに気付いていたのだ。だから、自分が彼女を殺したとまで言った。はっきりと断言したのである。
グラスを置いて、意味もなく表面の水滴をなぞる。フロアの方では、バイオリンの演奏が始まっていた。こんな話をするのに相応しくないような穏やかな曲調に、思わず苦笑いをする。
「…店長、私、考えちゃったんです」
「何をよ」
「小説家として、夏海さんの最期がどうあるべきなのかを」
子どもを助けるために階段から落ちて亡くなった並木夏海と、報われない恋の相手を思って命を絶った並木夏海、どちらの方が小説らしかったのか。生き方そのものが小説のようでありたいと言った並木夏海は、東有理に全て知られることを望んだのだろうか。
私は並木夏海の死に対して、彼女に所縁のある人物を巡る内に、もっと納得できると思っていた。それが、こんなにも腑に落ちない最後になるとは思わなかった。こんなことならいっそ、真相など解明されずにいた方が良かったのかも知れないと思うほど、並木夏海の周りの人間の思いは根が複雑に絡まり過ぎている。東有理の立場、松野陽加の立場、そして並木夏海の両親の立場―――それぞれから見てしまうと、「これで良かった」と思える終わりが違うのだ。
城春輝に顔向けできない、と思った。私の描くストーリーのラストがいつも好きなのだと熱弁してくれた、かのバイオリン奏者に。
「真実を知らせないことで東を死ぬまで並木に縛りつけるか、死んだ並木の名誉と尊厳を守るか…」
「あああああ……」
「何を悩むことあるのよ、作家の癖に馬鹿ね」
「いやなんですか作家の癖にって」
あまりに独断と偏見が過ぎる。誰もが一流大学を出ているわけではないというのに。現に並木夏海だって、と思ったが、彼女は音楽分野では一流大学の出であった。
「アナタ、誰のためにここまで各地を回って来たの?」
「誰のためって……」
「東のため?松野のため?並木の両親のため?違うでしょう。アナタは誰よ、並木の作家仲間じゃないの?」
「それは……」
「小説家の気持ちは小説家にしか分からないんじゃないの」
店長の言葉に、頭をがつんと殴られた気がした。確かにそうだ。どれだけ人に聞いて回ったって、私が鮮明に覚えているのは小説家の並木夏海だけだ。私にとって彼女は最初から最後まで小説家だった。親友とも違う、姉妹とも違う、仕事仲間と言うのも違う。色んな人が並木夏海を語った。けれどその人物像は、どれ一つとして同じものはなかった。そして、並木夏海がいない以上、どれが正解なのかも最早知りようがない。
それでいいのだろうか。そう思いながら、左手で頬杖をつく。右の指先ではコツコツとカウンターを叩いた。行原女史にも指摘されている、考え込んでいる時の私の癖だ。
小説家は、話を書いてこそだ。少なくとも私も並木夏海も、そう思いながら小説を書いていた。コラムや講評、審査など様々な仕事はあれど、自分の作品を生み出すことに没入することこそ、最も大切な仕事だと思う。どれだけ称賛を受けようと、次に出す新しい作品が同じだけ評価されるとは限らない。だから書き続ける。より良い作品を生み出すために、ペンを取るのだ。ペンを取れなくなってしまえば、小説家は死ぬ。
「並木夏海は、死んだ」
「ええ、そうね」
「並木先生の新作は読めない、もう二度と」
当たり前のことだ。当たり前だけれど、並木夏海が亡くなってから、ずっと私が思い続けていたことなのだ。
あの才能が羨ましかった。あれだけたくさんのヒット作を世に出してなお、驕ることなく謙虚に誠実に、文章に向き合い続けた。無機質さのないあたたかな文章が、私は好きだった。小説家としても好きだったし、いち読者としても好きだった。次はどんな世界を、そんな言葉を見せてくれるのだろうかと期待していた。皮肉や卑下の多い私の作風とはまるで違う、人間二人の物語が、私はこれからも読みたかった。小説家の並木夏海が、私は大好きだった。
私が黙ってしまったのを見て、店長がため息をつく。
「私はね、並木と東が生きててくれりゃなんでも良かったのよ。死んでしまったら何もかも終わりだもの」
自分より長い年数を生きている店長の言葉は、いつだって重い。ここのオーナーにも会ったことはあるが、彼女も決して楽ではない人生だったのだと言っていた。死んだ方がましだと思うような出来事だって、経験して来ているのかも知れない。店長も昔のことを語る人ではないから、推測することしかできないが。
フロアの音楽が一区切りしたようだ。ぱらぱらと拍手が起こり、舞台の方では若いバイオリニストが楽器を片手にお辞儀をしていた。
並木夏海も聴力に問題を抱えることがなければ、もしかすると今もあんな風にピアノを弾いていたかも知れない。海外留学の推薦まで受けた腕前だ、テレビ出演したり、コンサートのポスターに彼女の顔が載ったりすることもあったかも知れない。
並木夏海の恩師である羽村先生は、天才は孤独だと言った。それは暗に彼女が天才だったと言っていたわけだが、結局は小説を書かせてもそうだった。人一倍孤独を恐れたという並木夏海。彼女の書く小説の中心は、全て二人の人間だ。あれは、孤独の裏返しだったのか、彼女の感じた孤独が理想を書かせたものだったのか。もっと、もっと並木夏海と小説の話を私はするべきだったのだ。
「東も馬鹿ね。素直に並木の手を取ってりゃ、今頃苦しい思いなんてせずに済んだのに」
「…………」
「なんてね、これは私のエゴよ」
店長は自嘲するように言うと、前と同じようにウィスキーを私のグラスに注いでしまう。飲みなさい、という無言の圧力を受け、思い切ってグラスの中身を煽る。この間よりもとんでもない味が喉を下って行って、思わず噎せてしまった。涙目で咳き込む私を見て、店長はおかしそうに笑い、私に背を向けると目元を拭ったのだった。