満たされていた



 会わなければならないと思いながら、だらだらとその機会を故意に逃して来た。彼女と会えば、複雑な感情が溢れて止まなくなってしまいそうだったからだ。けれど、避け続けるわけにはいかなかった。東有理には、「この件を預けて欲しい」と、返す約束をしたからだ。
 最初に彼女を訪れた時と同じように、私は彼女の住まうマンションに会いに来ていた。ただ前回と違うのは、私は一人でこの場に来たことだ。

「お久しぶりです、仁科さん」
「お待たせしてしまってすみません」
「とんでもないです。さあどうぞ」

 彼女は以前と同じように、暗い色のカットソーを着ていた。彼女の公式ホームページの写真も黒いドレスで、行原女史に借りたCDやDVDを見ても、その衣装のほとんどが黒だった。衣装として、本人のイメージカラーとして舞台でそういった色を着用することはあれど、プライベートもずっとこのトーンだとは思わず、徹底しているなと思った。決して喪に服しているわけではなさそうだ。
 部屋に通され、部屋の中に積まれた段ボールが減っていることに気付いた。だが、正直まだ引っ越しが終わっていなかったことに私は驚いている。

「まだ引っ越してないのかって思ったでしょう」
「え、あ……そうですね」
「いろいろ、踏ん切りがつかなくて」
「踏ん切り?」

 私にソファに座るように促し、東有理はお茶をいれる。そしてキッチンから戻って来ると、粉末でごめんなさい、と言いながら私の前にマグカップを置いた。口をつけたが、紅茶に詳しくない私には、並木夏海の家で飲んだ紅茶も、この粉末の紅茶も味の違いがあまり分からなかった。

「なんだか離れがたくて、ここ」
「そうなんですね」
「新しい部屋の契約も住んでいるんですけど、引っ越し業者一回キャンセルしちゃって」
「え!?」

 それは、家賃が二倍発生しているということではないだろうか。さすが人気のミュージシャンは違うというか、何と言えばいいのか。ただ、その離れがたさの正体が、決して長年住んだ部屋だからというだけではないことを察することは、あまりに容易だ。それゆえに簡単に「もったいない」などとは口が裂けても言えなかった。
 それきり、互いに黙りこくってしまう。どう切り出せばいいのか、私はついにここに来るまでに思いつくことができなかった。私ばかりが気まずく思っているのか、ちらりと紅茶の湯気越しに見た東有理は落ち着いているように見える。私の視線を感じ、目が合うと、東有理は小さく笑った。やはり、力のない笑みだ。

「何から話して下さっても結構ですよ」
「え、ええと……そうですね……」

 私よりもよほど覚悟をしているらしい。それは、表情とは裏腹に迷いのない声だった。

「夏海さんのご実家に伺って来ました」
「まさか、神戸の?」
「はい」
「そう…。私を恨んでらっしゃったでしょう、夏海のご両親」
「正確には、お父様が……」

 でしょうね、と言って苦笑いする。並木夏海の運ばれた病院で、彼女の両親と対面した際に言われた言葉に、東有理は傷付いたはずだ。けれど、それを甘んじて受け入れているように見える。自分のせいで並木夏海は辛い思いばかりをしてきた、自分のせいで並木夏海は死んだ―――彼女のその自責は、並木夏海が亡くなってから止むことのないものだ。他者からも現に言われており、並木夏海の遺した原稿にも書かれていた言葉でもある。
 心当たりがなければそこまで十字架を背負う必要なんてないはずだ。私は、訊くか訊くまいか悩んだ末、口を開いた。

「あの、間違いだったら申し訳ないのですが」
「なんでしょう」
「東さん、気付いていましたよね」
「…なにに?」

 ぴくりと、東有理の口角が引き攣り、ほんの一瞬だが返事に躊躇いがあった。なにに、などとわざわざ聞かなくても分かっていたはず。分かっていたから、隙が生まれた。どくんどくんと、私の心臓も喧しさを増す。小さく息を吸って、答えた。

「夏海さんの気持ちです」

 自惚れや思い込みではなく、気付いていたはずだ。だから東有理の口からは出たのだ、並木夏海を殺しただなんて強い言葉が。
 東有理は、自らの入れた紅茶に口をつける。一口、二口、喉が動いた。テレビさえ片付けられたこの部屋に、マグカップをテーブルに置く重い音だけが響いた。

「気付かないはずがありませんでした」

 それは、犯した罪を告白するような口ぶりだった。その目は、つい先ほどまでのように私を見てはおらず、無機質なテーブルだけを捉えている。
 決して目の前の女性を責めるわけではないが、やっぱり、という気持ちだけが私の胸中には広がった。

「私の中に恋愛感情が存在しないことを打ち明けた最初の相手は、夏海でした」

 東有理のファンである行原女史の情報によると、彼女がその件をカミングアウトしたのはたった一度きりだ。随分と昔の音楽雑誌の小さな記事だった。行原女史は東有理のファンになってから、それ以前に掲載された雑誌を、バックナンバーを取り寄せてまで読んだそうだ。後にも先にもその一度きり。だが、長年のコアなファンの間では目新しい情報でもなんでもないため、特に大騒ぎにもならず、特別取り沙汰されなかったそう。
 並木夏海に話したというのはそれ以前だろうが、それが高校時代なのか、音大時代なのか、そこまでははっきりとは言わなかった。

「夏海だけでした。そんな私に、“そっか”って、それ以上何も言わないでくれたのは」
「……ええ」
「その時、気付いてしまったんです。だって、あまりに悲しそうな顔をするから」

 分かっていたけれど、気付かないふりをした。互いに今の時代では“普通”という枠から外された二人が、互いに傷付かないためにはそれが最善だったのかも知れない。
 並木夏海の気持ちを知りながら、一番の親友であろうとした東有理。東有理への気持ちを心の底に押し込め、決して口にすることのなかった並木夏海。通じることのない矢印を抱えながら、互いを拠り所としていた二人は、本当はずっとぎりぎりの均衡を保っていたのかも知れない。壊したくない親友と言う関係、その心地のいい距離を覚えてしまえば、その最大の居場所は何にも代え難く、失い難いものになる。
 私が思うよりもずっと、二人はもうずっと危うかったのだ。並木の手を取っていれば、と店長は言ったけれど、これはそう簡単なことではない。自分の心を偽って並木夏海の手を取ることは、その瞬間、同時に並木夏海を裏切ることになってしまうのだ。

「でも、そっか、って言うだけで、離れないでいてくれた」
「ええ」
「私は、そんな夏海がこの世で一番大切でした」

 もし、私が並木夏海だったら。性格も好みも作風も、全然違うけれど、そんなことを思う。同じ小説家と言うだけの私、けれど想像できる。

「それだけで満たされていた」
「え?」
「東さんがそう思い続けてくれたことこそ、夏海さんの人生を満ち足りたものにしてくれたと思います」
「夏海の、人生」

 東有理の結婚に、並木夏海は確かに絶望していた。けれど、同時にそこには祈りも願いもあった。彼女の人生に幸せがあらんことを、と。ただ、できることなら自身の手で幸せにしたかったという後悔と共に。
 並木夏海の日記そのものを読むことは流石に憚られたけれど、彼女の母親が教えてくれた。彼女の人生の最期は、決して不幸や苦しみだけではなかったのだと。日記に度々出て来る東有理の名前の周りには、恨み言や憎しみの言葉は一度たりとも出て来たことはなかったのだと。

「夏海さんがこの世で一番、東さんの幸せを願っていたはずです」

 私の言葉を聞いて、東有理は声もなく涙を流した。泣いているということも自覚していないかのように、拭うこともせず。
 両親と絶縁状態となり、兄弟姉妹のいない並木夏海に、最後に残ったのは東有理だった。親のように接してくれた店長でも、姉のように見てくれた松野陽加でもなく、並木夏海が自身の心に従い選んだのは、東有理だったのだ。

「私を愛してくれた夏海を、私は愛せませんでした」
「…………」
「私がこれから先、一生背負って行かなければならない咎です」
「咎……」

 きっと東有理は、世界中が許しても、いや、並木夏海が許したとしても、決して自分を許すことはないのだろう。あまつさえ他の男との結婚を、形式的とはいえ決めたのだ。並木夏海にとっても、東有理にとっても、それは大きな裏切りとして二人の間には確かに残ってしまった。そこに、第三者が口を挟む資格はない。並木夏海の願った彼女の幸せからは程遠いとしても、東有理にもまた、自身の気持ちを一番に抱え込む権利はあるのだ。たとえ、彼女との思い出の傍にこれから先ずっと、計り知れない罪悪感を置くことになったとしても。
 ただそれでは、あまりにやり切れない。東有理と知り合ってしまった以上、彼女の体には大き過ぎる咎だとさえ思う。

「仁科さん、私の活動はここで終わってしまいますが、仁科さんはどうか止まらないで下さい」

 涙を拭いて、東有理はようやく私を見る。

「夏海はいつも言っていました。仁科晶穂には一生敵わないと」
「そんな、はずが…」
「平澤大和も城春樹も、仁科さんのファンを公言しています」
「確かに、平澤さんにはお世話になりましたが…」

 かなり前に、小説の帯コメントを書いて頂いたことはある。コンサートに招待されたことも。城春輝に至っては、先日音大で遭遇して熱く語られてしまったが、自分の知らない所で公言されていたのは流石に初耳だ。あの調子でどこかのインタビューで答えていたのだろうか。
 そして東有理は、「私も」と続ける。

「私も、何度も仁科さんの小説に救われて来ました」
「…………」
「夏海の分も、と私が言うのはお門違いですが、どうか」

 思わず絶句する。小説家として、それは名誉な言葉だ。けれど、間違っても並木夏海には聞かせられない言葉だと思った。これが正直な東有理の気持ちだとしても、その言葉を私に投げかけることは、それもまた罪だと思った。どうしても素直に頷けず、曖昧に笑って濁した。
 なるほど確かに、彼女は作家の並木夏海をどこかで殺していたのかも知れない、と思った。無意識とは恐ろしいものだ。何よりも口にしてはいけない言葉を、もしかすると東有理は並木夏海に言っていたのかも知れない。小説家として並木夏海の気持ちを思うと、途端に、ぞっとしてしまった。強ち間違いではなかったのか、と。
 けれどそれでも、並木夏海ならこう言うのだろう。有理が笑ってくれるならそれでいい、と。



 東有理の住むマンションを出て、一人駅まで歩いて帰る。考えていたのは、小説家としても並木夏海のことだった。もうずっと、並木夏海のことを考えている。彼女との思い出、話したこと、一緒に行ったカフェ、他愛ない雑談―――それらが少しずつ、遠ざかって行く。幻のように薄らいで行く。どれだけ鮮やかに覚えていたいと思えど、少しずつ時間をかけて、褪せて行く。思い出したくても思い出せないものへと形を変えてしまう。

「私は、書こう」

 色褪せ、形の変わってしまう前に。彼女と共有した時間が、確かなものだったと思える内に。私はまだ、筆を折ってはいけない。
 脳裏に並木夏海の姿を、声を描いて、帰路を急いだ。

 その少し後、東有理は最後のアルバムリリースに先立ち、引退ライブをたった一日だけ開催した。そのアルバムの曲を中心に構成されたライブにMCは殆どなく、東有理はほぼ歌いっぱなしだった。これで声が枯れようと喉が壊れようともう構わないというような、彼女の最後の叫びのようにも感じた。命を削った、とネットニュースで評されたそのライブで、涙を流さなかった彼女のファンはいなかっただろう。
 それと相対するように、“暖かい春と海の音が美しい、君の眠る街”と、最後の曲でそう歌った東有理は、ミュージシャンとして最後の舞台で決して涙を流さなかった。